随筆 ふるさとの味 あとがき より


いつものやうに装幀は自分でしました。表紙のザリガニのもやうは、一昨年欧羅巴へ行 きました時、ストックホルムの大江公使夫人から記念に頂いた卓クロスです。スェーデン では八月になると、ちやうど日本の六月の鮎と同じやうに、一せいにザリガニの解禁と なり、料理屋でも家庭でも、ゆでたザリガニを山のやうに盛りあげて、ふんだんにたべる のです。料理屋は紅いランタンを軒にかけつらね、町のショウウィンドには、 ザリガニもやうの卓クロスが、瀧のやうにかかります。あっちを向いてもザリガニ、こっちを向いて もザリガニです。

(中略)

れる澄んだ小川の石の下に、ザリガニがたくさんゐました。夏のー日、母のるすに近じよ の悪童たちがあつまってきて、ザリガニをざるにいっぱいとって、台所の爐に大鍋をか け、しやう油をつぎこみ、煮たつたところへザリガニを入れてさつと煮ました。
おいしいからたべてごらんよと、みんなからすすめられて、おそるおそるつまんでみる と、いままで、苺とさくらんぼと、たうもろこしと、かぼちゃと、樹になったままの林檎 をかじる事より知らなかった私にとって、それはまったく驚嘆に値する、うまいものでし た。子供の世界から一躍、大人の世界へとびこんだやうな味でした。
数へどし五つの年の事です。母に云へは叱られるので、もう一度たべたいのを、だまつ て辛抱してゐるうちに札幌へかへる事になって、ザリガニとの縁は永久に切れたと思って ゐましたら、はからずも北欧の旅の空で、五十数年ぶりでめぐりあったのです。塩うでし たザリガニの紅い皮をむきながら、私は子供の日の、とれたてをしやう油でさっと煮たあ の味を、しみじみと思ひ出したことでした。 あのザリガニが私に、味といふものを数へてくれた最初のものではなかったかと思ひま す。


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