内田百閒エピソード

内田百閒のエピソード

内田百閒氏が千里山の家に滞在した時のエピソードです。

「、、長女の麗子は七歳にして先生をふるへあがらせた。さきに書いた千里山の時の事、何かの用事で夫も私も長男を連れて外出し、うちには先生と麗子だけが残った。夏も終りのむし暑い日で、いかにもゆふだちの来さうな日であったが、内田さんは雷が大きらひである。あるひはそれを予想して家に残られたのかもしれなかった。果たしてゆふだちは誤りなくやってきて、雷光、雷鳴とともに家うちをゆるがし、あまつさへすぐ近くに落雷したので、その凄じさは言語を絶した。この間にあって七歳の少女は、泰然自若として宿題か何かやってゐたのに、大人の方は甚だしく狼狽したらしい。大学の先生で、大きなおとなが、雷ぐらゐでうろたへるとはと、少女はすっかり軽蔑したのであった。
雨がやんでから、少女は座敷に飛びこんできた金ぶんぶんをつかまへて、ほそい脚をぷつんともぎとった。先生はあをくなった。
「麗子ちゃんおよしなさい」
あわててとめたけれども、既に先生の正体を看破して、怖るるに足らずとみた少女は、一言の答へもせず、無言のまままたぷつりともいだ。「およしなさい」「およしなさい」「およしなさい」・・・脚が一本もげるたびにそこから真紅の血潮がさっとふきあがって、到頭おしまひには、座敷ぢゅう血の海となった心地がしたさうである。それでも少女は最後の一本をもぎとるまでやめなかった。
「もうもう麗子ちゃんと二人きりは一生ごめんだ」と云はれたが、少女の方はその時以来、世人の畏敬する先生を一向怖れぬやうになった。

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