「一つの挿話」では、たま女史の反戦論について、当時のエピソードとともに
書かれています。反戦論といっても窮屈なものではなく、母親としての考え方として、
「わが子を戦場に送る場合、母親はよくよくその戦争の本質を
見極めてからでなくては出してやれない」
というものでした。当然、周囲からは猛反発を食らったようです。
「希望のたいまつ」では、アメリカ民間情報局の将校と面談した時のことが書かれています。
廿四歳のハーバード大出の将校(大尉)との面談は、たま女史にとって驚きであると同時に、
希望を抱かせるものであったようです。
「この人たちはラジオを通じて、あらゆる日本の女性の覚醒を促さうと
してゐます。苦しみと涙の代りに、よろこびとたのしみを与へやうとして、この青年士官は、
優しい眉をひらいて、私達に協力を求められたのでありました。
戦後は、進駐軍軍人と交際する機会が多かったらしく、 若い軍人達からは「ママ」と呼ばれて親しまれていたようです。
あと、交友のあった物理学者中谷宇吉郎氏が随所に登場します。特に中谷氏の発言
「キュウリー夫人を、女であの大発見をしたからえらいといふ、
あのいひ方はまちがってゐますよ。あれは、女だから出来たことなのです。」
は、2ヶ所(「迎春」、「銀盃」)に現われいます。
この随筆集の中で、私が一番興味を持って読んだのは、戦時中に書かれた「あこがれの美」です。
物資の不足で、普段着には誰もが気を配ら(配れ)ず、もんぺ姿でいれば良いという安易な考え方を
「生活のうるおい」という点から批判しています。
はたして当時、このように考えて発言した人はどれくらいいたでしょう。
たいていは気持に余裕がなければ、このような考え方はできないのではないでしょうか?
言い換えるなら、たま女史の心の中には(少なくとも執筆した時点では)、戦争がそれほど
大きな存在とはなっていなかったのではないかと考えさせられてしまいます。
たま女史の考え方の中心にあるのは、どうやら「美しく生きること」であるようです。
そうすることで、「世の中を清らかに、平和に、美しくすること」が出来ると信じていたようです。
ただ女性の存在意義として、
「女は人生の花であり、愛情の泉である。あらゆる男性にとって、
常にあこがれの的であり、久遠の女性であらねばならないと思ひます。」
と書いてあるところなどは、(そこだけを読むと)男性に対しての相対的な価値だけしか
女性が持っていないことに不満を覚える人も多いでしょう。しかしたま女史が言いたいのは、
おそらく女性自身の気の持ちようであって、(結果的に男性にはそう思われるかもしれないが、)
女性自身が、美に対するあこがれを持つことが大切であるということです。
そうした意識が、たとえもんぺのような衣服しかなくても、ほんのちょっとした工夫で
さっぱりとした身だしなみをすることを可能にするのでしょう。
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