わが月評―大正八年六月の文壇

「蟀谷のきず跡」


 南部修太郎《なんぶしうたらう》氏の「蟀谷《こめかみ》のきず跡」(三田《みた》文学)は「少年の日」(新時代)と共に、幼時の追憶を書いた物である。両方ともちやんと美しく纏《まと》まつてゐるが、殊に「蟀谷《こめかみ》のきず跡」は子供らしい愛憎に照応する現在の主人公の心もちが、纏綿《てんめん》たる情味を帯びて手際《てぎは》よく書き分けられてゐた。唯、その情味が時として纏綿すぎる感がないでもないが、それと同時に作家ずれのしない純粋さがあるだけでも結構である。序《ついで》ながら自分は主人公が五月雨《さみだれ》の川の水勢を見て、「鰻《うなぎ》が困つてゐるだらうな」と思つた時、正に自分の心も昔に返つて、「うん、困つてゐるだらう」と云つた事をつけ加へて置きたい。

底本:「芥川龍之介全集 第五巻」筑摩書房


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