南部修太郎年譜

最終改訂:2013年5月11日


明治二十五(1892)年十月十二日仙臺で生れた。父常次郎(拓務省技師)、母アキ(銀林鋼男の長女)の長男。 土木技師である父の轉勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と轉住した。
明治三十二年四月長崎市立勝山尋常小学校入学(長崎には住むこと七年、小學校課程の大半をこゝで過し、少年時代の追想の懷しい町である。)
明治三十六年四月長崎県立師範学校付属高等小学校進学
明治三十八年五月父の轉勤とともに東京に上り、麹町区永田町に転居(のち麻布區新龍土町十二、現在は港区六本木七丁目)。赤坂小学校高等第三年級に転学。
明治三十九年四月東京の私立芝中學入学。
明治四十四年三月芝中學卒業。
明治四十五年四月慶應義塾大學(純文学科予科)入學。文學科露文學を専攻。
大正二年(1913)秋井汲、小島らとともに回覧誌"Ku fin"を作る。
大正三年八月長崎旅行。
大正五年妹ヒサ夫妻を苫小牧に訪ね、北海道一周を試みる。函館郊外の修道院を訪れる。
大正六年三月*慶應を卒業。
同年六月外国語学校専修科に入りロシア語を学ぶ。「三田文學」編集主任をつとめる。
大正九年四月「三田文學」編集主任を水木京太に引き継ぐ。
大正十一年九月から十月北京や上海を旅行。
大正十二年五月府立第一商業学校校長陶山氏の長女菫と結婚。
大正十三年二月長男淳一郎生まれる
大正十五年一月次男亮二郎生まれる
昭和三年秋九州旅行。
昭和十一(1936)年六月十六日夜半脳溢血のため邸前に倒れ、二十二日午前九時逝去。享年四十五歳。港区南青山 青山霊園1種イ22号1側に埋葬される(修文院釋樂邦信士)。


*参考資料3記載の略歴には四月卒業とある。

参考資料
『自分のこと』「新進傑作小説全集月報第七號」(南部修太郎集・石濱金作集付録)
平凡社1930(昭和5)年2月15日発行
現代日本文學全集85「大正小説集」
(筑摩書房 1957(昭和32)年12月20日發行)収録の年譜
「三田文學」
1936(昭和十一)年八月「故南部修太郎追悼号」
「近代文学研究叢書41」
昭和女子大学近代文学研究室編(昭和50年刊)

表紙に戻る。