平塚らうてう


 雑誌「青鞜」を創刊した平塚らいてうと仙子のつながりは、文献からは窺い知ることができません。唯一、氏の自伝(『元始、女性は太陽であった』)の中にわずかばかりの記述を見出すことができます。
 まず、事務的な役割を担った物集(もずめ)和子(父は「広文庫」の物集高見)の事務日誌(明治四十四年七月三日)に、
「午前中に水野仙子氏を訪れて原稿の事をたのむ。題は『安心』となり。」
とあります。
 らいてう自身の記述としては、
「水野仙子さんは創刊当時からの社員でしたが、お体が弱いとのことで、社の集まりには一度も出てこなかったので、お会いせずじまいでした。水野さんはたしか田山花袋のお弟子で、作家としての力量を示しながら、早く亡くなっています。」
とあるきりなのが残念です。どうやら仙子は、「青鞜」が声高に新しい女性像を叫ぶのに反発を感じていたらしいのです。仙子の男性観については、「たゞ一つの自由を」(大正3年)が参考になるでしょう。


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