橘糸重年譜

最終改訂:2022年8月21日
阪本幸男「橘糸重歌文集」(2009年 短歌新聞社刊)に掲載されている年譜を基に作成しました。


明治六(1873)年10月19日三重県鈴鹿郡亀山町南崎二〇番屋敷に父良珉、母さち(幸子)の四女として出生(戸籍名いとへ)。
明治七(1874)年母らと共に上京し、下谷区西黒門町19番地に住む。
明治九(1876)年長兄良佺が大学東校を卒業し、母校教師チーゲルの助手となる。
明治十二(1879)年10月下谷区私立青々小学校に入学。
明治十四(1881)年9月青々小学校を退学し、女子高等師範学校付属女児小学校下等第一級に入学する。この年、長兄良佺が鹿児島医学校に転任。
明治十六(1883)年2月女子高等師範学校付属女児小学校を退学。
4月宮城県医学校校長として赴任する長兄良佺に従い、宮城県師範学校付属小学校中等科二級に入学。
10月良佺死去(8月22日)に伴い、帰京して女子高等師範学校付属女児小学校上等第五級に入学。
明治十九(1886)年2月小学校を卒業。
3月佐々木弘綱に入門する。米人フルベッキに英語学を学ぶ傍ら、ドイツ語を学ぶ。
明治二十(1887)年7月東京大学医科大学生の次兄棄郎が死去。
明治二十一(1888)年9月東京音楽学校予科に入学。
明治二十二(1889)年7月東京音楽学校予科を卒業し、本科専修部に入学。
明治二十四(1891)年6月佐々木弘綱死去。
明治二十五(1892)年7月9日東京音楽学校本科専修部を首席で卒業。同日、研究生を申し付けられる。
9月10日同校授業補助を申し付けられる。
明治二十六(1893)年9月改組により、高等師範学校付属音楽学校教務嘱託を申し付けられる。
明治二十七(1894)年10月15日母さち死去(65歳)。
明治二十九(1896)年11月21日高等師範学校付属音楽学校助教授に任ぜられる。
明治三十一(1898)年5月音楽学校講師ケーベル着任。糸重はピアノの個人指導を受ける。
明治三十四(1901)年5月7日東京音楽学校教授、高等官八等、正八位に叙せられる。
明治三十六(1903)年出京後はじめて亀山に帰京し、善導寺にある父良珉の墓参を果す。
大正十一(1922)年本年度から、第四臨時教員養成所講師を兼務する。
大正十二(1923)年6月14日横浜ロシア総領事館内の仮寓にてケーベル博士死去(76歳)。雑司ヶ谷外人墓地に葬られる。糸重は告別式に参列する。
9月1日関東大震災のため、神田五軒町の家屋消失。
昭和三(1928)年3月東京音楽学校を退官し、引続き講師として没年まで出講する。
昭和十四(1939)年9月1日死去。
9月4日葬儀の後、護国寺内共葬墓地に姉の婚家鈴木家と合葬される。


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