カール・シューリヒト入門

楽古堂主人・大内史夫

「自分自身を疑うことをやめてはなりません。それによりあなたの才能が初めて真の開花を迎えることになるのです。」

「若き指揮者に寄せる手紙」 カール・シューリヒト 1954年

 以下では、ドレル・ハンドマン氏(以下、敬称略)のカール・シューリヒトを追悼する感動的な文章『ある横顔』(以下に「*」印を付ける)と、「想い出と追悼そして賞賛」を読みつつ、19世紀末から20世紀のヨーロッパで、音楽家としての自己を成熟させ、前人未到の高みに至った偉大な指揮者の生涯を振り返ってみたい。  特にドレル・ハンドマンの文章は、優れた指揮者の身近にいた友人としての見識と情愛の念に溢れている。美しい友情の記念を中心にして、シューリヒトに捧げる花束を自分流に編みたいと思う。シューリヒトへの尊敬の思いに免じて、御寛容をお願いする。
 浅学非才の身だが、何箇所か小林氏の訳文を変更している。もとより原文と校合したわけではない。単に日本語として流れの滞っているように思われる部分を、少し変えてみただけである。御笑読下されば幸甚である。

「彼は、勝利者の容貌を備えていました。すなわち、尖った鉤鼻と、確信にみちた炯々とした眼光の所有者でした。」

 ヨーロッパ人が「勝利者」という言葉から連想するのは、ローマ人の容貌だという。ことに、その皇帝たちのリアルな彫像からくるものである。ハンドマンが、その中で誰を思い描いているのかは不明だが、僕はシューリヒトと、賢人皇帝アウグスティスの容貌の相似を感じていた。カリギラ帝も似ていなくはないと思うが、イメージが違いすぎる。皆さんは、どうであろうか。ただこの「勝利者の容貌」という比喩には、ハンドマンンの実に深い思いがあるだろう。最後にまとめていきたい。

 バイエルン放送交響楽団のギー・エリスマンは、指揮台上のカール・シューリヒトの眼の印象を、次のように語っている。

「オーケストラの友人であり同僚として、繊細でしかもダイナミックに指揮壇に立つ彼、また時には、譜面台に寄りかかりながら、動作でよりもむしろ視線で、的確に、そして自由に指示を与えている彼、そんな彼の姿を、今もまのあたりに見るおもいがする。」

「豊かな人間性と音楽性、明晰な頭脳、優しく、しかも勇壮であり、慎しみ深く風刺精神に富む賢さなどが輝く彼の視線。その中にカール・シューリヒトのすべてがあり、そしてそれこそが、彼の永遠の若さの証しでもあった。」作曲家、ダニエル・ルスュールの言葉。

 しかし、シューリヒトといえども、視線によってオーケストラを自分の楽器とする精妙な境地に、最初から達していたわけではない。

   指揮者のヴァルター・アーベントロート(Walter Abendroth)は、同僚としてシューリヒトの近くにいた。同じ職業につくものとして、次のような観察を報告している。

「40年以上に亙って、私はカール・シューリヒトと知己を得、その指揮活動を追い、また芸術の発展を眺めることができた。彼はこのあいだに驚くべき内的発展を成し遂げたのであった。」(以下のアーベントロートの翻訳は小田謙爾氏による。)

 1923年に43歳のシューリヒトは、ヴィースバーデンの交響楽団の音楽総監督となる。この職に1944年までつくことになる。

「確かに、彼は当初から疑いもなく天分に恵まれた、「生まれながらの音楽家」ではあった。しかしながら、彼が最後に到達したような高みを備えた個性へといつか成熟をとげるとは、当初誰も予想できなかったであろう。」

 この時代のシューリヒトの演奏を、僕は一曲も聴いていない。アーベントロートの評価を信用すれば、彼が超一流の指揮者となるのは、晩年のことである。

 以下では、小林氏の「年表」を参照しつつ、アーベントロートと出会うまでのシューリヒトの半生を、概観してみよう。傍らに世界史年表を置いておく。手元の『ブラームス交響曲第二番』のCD(LONDON KICC2194)には ブックレトが添付されている。宇野功芳氏の「シューリヒトとこの演奏について」 という文章を活用しよう。  カール・アドルフ・シューリヒトは、1880年7月3日、ダンツイッヒ (現在は、グダニスク)の代々のオルガン職人の家庭に生まれている。ダンツィッヒは、ヴィストラ河口の海港都市である。バルト海に面している。  彼の生まれる一ヵ月前に、グラハム・ベルが、初めて無線で伝言を送ることに成功している。文化的には、フランスに象徴主義の運動が起ころうとしていた。モーパッサンの『脂肪の塊』は、この年に発表されている。一方では、フローベールが没している。
 日本では、10月25日に、宮内庁式部寮雅楽科が『君が代』を作曲し、ドイツ人エッケルトが、これを編曲した。11月3日の天中節宮中御宴で、初演奏がなされている。ついでながら、東儀季芳によって海軍将官礼式用の曲『海ゆかば』が作られている。この二曲が、姉妹のような関係にあることを、若い方にも知っておいてもらいたい。
 19世紀の世界は、激動の20世紀に向かって胎動を開始している。そんな時代である。
 父のカール・コンラート・シューリヒトは、1856年1月27日の生まれである。この前年の1855年11月14日に、ブラームスがダンツィヒに演奏旅行をしている。カールの父も一家のオルガン工房で職人として働いていた。しかし、あやまってダンツィッヒ湾の海に転落した雇用人を助けようとして、1880年の6月9日に亡くなっている。息子の誕生の、わずか三週間前のことであった。24歳の若さである。
 シューリヒトの生涯に渡る、自己陶冶の厳しさには、一つには父の影響があったように思えてならない。現実の父には実在の人間としての限界があるとしても、非在の父を目標とした時に、その自己犠牲の崇高な姿に、生きる目標としての限界はない。カールという同じ名前を持つ子供は、父に迫ろうとしたのではあるまいか。証明は不可能なことである。しかし、この子は、神のみ前で父に面会したとしても、なんら恥じ入ることはないであろう。
 これまで宇野氏の文章から単に「事故死」と思っていた事件の真相を、今回小林氏の「年表」で初めて知りえた。何よりもうれしい発見であった。シューリヒトへの親愛感が、深まったように思われる。
 母のAmanda Ludowika Alwine Wusinowskaは、 有名なpolish oratorio歌手 であった。夫 の死後、再婚する ことはついになかった。子供は、父から高潔な人間らしさと職人としての 血を、母から優しさと音楽家の血を受け継いだ ように思われる。
 シューリヒトの生まれた1880年に、ブラームスは『悲劇的序曲作品80』と『大学祝典序曲作品81』を作曲している。いわゆる「涙と音楽と笑いの音楽」である。
 次に、シューリヒトの幸福な幼年時代を描写する、宇野氏の文章を引用しておきたい。

「祖父、叔父、叔母、いとこたちと共同で生活していた彼の家庭はまことにあたたかく明朗であった。日曜日になると馬車を数台借りきって家族全員が郊外に出かけ、バッハやメンデルスゾーンなどの合唱曲を歌うのが常であった。森や谷間からは数頭のシカが走り出してきて、ハーモニーに耳を傾けることもしばしばだった。」

 絵のように美しく、心に染みいるように懐かしい光景である。永遠に失われたしまった、古き良き時代への愛惜を覚える。シューリヒトのブルックナーの音楽の美しい自然描写の調べに接するたびに、思い起す文章である。
 以下は、シューリヒトの生涯を、激動するヨーロッパ情勢とともに、辿ってみたい。彼の音楽を考える際に、その出生がダンツィヒだったことに重い意味があるのではないかと考えているからである。
 ドイツ人が、この土地に移住して来たのは12世紀のことである。13世紀からは封建諸侯に属さず、皇帝に直属する自由都市になった。アーヘン・ケルン・ブレーメン・ハンブルグなどと同様である。14世紀初頭に、プロイセン地方を領有したドイツ騎士団によって征服される。以後、ハンザ同盟の都市としてケルン・ブレーメン・ベルリンなどとともに、繁栄の時代を迎える。
 ハンザとは、ドイツ語でギルドのことである。ギルドは、中世都市の商工業者の同職の仲間たちで作る団体組織である。商人ギルドと、手工業者ギルドに大別される。シューリヒトの一族も、この手工業ギルドの流れを継いでいるのかもしれない。遠距離通商の発展とともに生じた。都市同盟は、商業の安全をはかるとともに共同の陸海軍を備えていた。貨幣と度量衡を共通として大勢力となっていく。
 ダンツィヒは、東西ヨーロッパの交易港として栄えたが、その交通の要衝としての位置から歴史の有為転変に巻き込まれていく。1793年プロイセン王国の領土となる。
 ダンツィヒは、そのような商業と手工業の港湾都市であった。
 「年表」では、1886年に六歳のシューリヒトは、ピアノとヴァイオリンを同時に習い始める。
 宇野氏によれば、ヴァイオリンは七歳からである。母の手ほどきによるという。これは母親が自身で教えたのだろうか。それとも、歌手であった彼女の人間関係を活用するなどして、誰かに教えてもらったのか。ほんの小さなことでも、重箱の隅を突くような真似をすると、途端にわからなくなってしまうのが残念である。シューリヒトの詳しい伝記が一冊あれば、解決する問題なのだろうが。ニューヨークのベドローズ島に、自由の女神像が建立された年である。スティーヴンソンの『ジキルとハイド』、ランボーの『イリュミナシオン』刊行。列強の帝国主義の動きは、アジアにおいて急である。ヨーロッパにおいても、植民地を『持つ国』イギリス、フランスなどと『持たざる国』ドイツ、イタリアなどの対立が始まろうとしていた。
 1882年には、ビスマルクの主導の下で、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」が成立していた。これが、イギリス・フランス・ロシアの 「三国協商」と対立していくことになる。
 1889年には、フランスの国威発揚の象徴として、パリにエッフェル塔が建設されている。
 1891年。11歳。作曲を開始する。二つのオペラの台本と音楽を作る。早熟な才能である。このオペラへの関心の強さと、その後の指揮者としてオペラ活動の薄さは、どのような関係にあるのだろうか。
 少年シューリヒトは、何に興味を持っていたのだろうか。自然を愛し、アイヒェンドルフの詩を好んだとある。推測の域をでないが、フランスの象徴主義の詩人や、ホフマンスタールやペイターらのドイツ・ロマン派の表現が、詩的な直感に秀でていたであろう少年の視野に、あったのではないかと思われる。どうであろうか。つまり、自然以外にも、人間の精神の暗部への興味や関心は、持っていなかったのだろうか。明るい「アポロ的芸術」と呼称されるこの人のブラームスの交響曲に、底知れぬ孤独の深みへの沈滞と、そこからの爆発的な解放の衝動を聞き取る瞬間が僕にはあるのだ。
 この年に、ランボーが没している。
 1895年。15歳で指揮をする。
 1897年4月3日、ブラームス死去。
 シューリヒトは、十代までの自己形成の重要な時期を、19世紀という時代に生きたのである。

 1901〜2年。マインツで、合唱指揮者として最初の専門的な音楽の活動を開始する。
 1901年1月1日、オーストリア連邦成立。汎ゲルマン主義のオーストリアと、汎スラブ主義のセルビアとの対立が激化していく。1月22日、英国ではヴィクトリア女王が没し、エドワード7世が即位する。9月14日には、米国大統領マッキンレーが暗殺され、ルーズベルトが昇格している。この年にヴェルディが没している。
 1902年は、シューリヒトにとって重要な年である。22歳の青年は、博士号をフランツ・フォン・メンデルスゾーンから授与される。「Kuszynski Foundation」の作曲賞を受賞している。これによって彼は、学業をベルリン音楽学校で継続できることになった。エルンスト・ルドルフにピアノを、エンゲルベルト・フンパーディンクに、後にはライプツィッヒで、マックス・レーガーに作曲を学ぶ。
 二十代は研鑽の時代であっただろう。ドイツで初めて、フレデリック・ディーリアスを紹介したというのも、いかにも彼らしい。
 1912年、31歳でヴィースバーデンの音楽監督になる。4月に、タイタニック号が沈没している。トーマス=マンが『ベニスに死す』を書いた。前年には、ホフマンスタールが『バラの騎士』を完成している。
 1913年9月、彼はヴィースバーデンでマーラーの第8交響曲を指揮する。
     1914年。ロンドンに招かれて指揮をする。5月、スカラ座にデビュー。
6月28日、オーストリア皇太子フェルディナント夫妻が、自治領のサラエボで、セルビアの一青年に狙撃され射殺される。世に言う「サラエボ事件」である。これが導火線になって、「世界の火薬庫」と言われていたバルカン半島に戦火が起こる。
 7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が開始される。
 1918年11月4日、オーストリアが11日ドイツが降伏して戦争は終結する。
 1919年、連合国とドイツの間で、ヴェルサイユ条約が成立。これによってダンツィヒは、国際連盟が管理する自由市となった。つまり、もはやドイツではなくなったのである。
 1920年1月10日。国際連盟発足。
 1921年。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとともに、『ブラームス・フェスティヴァル』を開催する。シューリヒト41歳。故郷が失われた時に、彼のブラームスは、どのような苛烈な音色を奏でたのであろうか。
 1888年生まれのフルトヴェングラーは、33歳。翌年にはベルリン・フィルハーモニーの正指揮者となり、1944年まで指揮した。全盛時代を築いていく。
 この年の5月5日に、ドイツは第一次世界大戦の賠償金の支払い計画の受諾を要求する、最後通牒(ロンドン最後通牒)を連合国から突き付けられている。
 1922年。ダンツィヒは市の憲法を持つ。
 シューリヒトも、1923年にはヴィースバーデンの音楽総監督となって、1944年までこの地位についている。
 1927年10月16日、ダンツィヒに後のノーベル賞作家ギュンターグラスが誕生している。彼は、この町の1930年代を舞台とする『ブリキの太鼓』を書いている。町の描写は少ない。3歳から、成長することを拒否した少年オスカル。その視点から覗けるダンツィヒは、閉塞感に満ちた奇形の都市である。1979年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化されている。

 アーベントロートは、述懐する。

「この個性が初めて本来の意味で姿を現したのは、いわゆる「聖書に出てくるような」高齢に至り、この楽匠にとって指揮台が一種の戦場と化して後のことである。それは、彼のいよいよ冴え渡る創造者としての意識が、逆にますます言うことをきかなくなっていく肉体との密やかな戦いを毎回繰り広げる戦場であった。」

 アーベントロートがこう言ったとしても、1930年から40年代の壮年期の彼の音楽を一曲も聴いたことがない以上は、判断を保留しておかざるを得ない。
 僕は、1920年代は、それ以前の世代から次の世代に、指揮法が変化していった時期ではないかと考えている。マーラー・ニキシュ・ムックらの世代から、ワインガルトナー・シャルク・R.シュトラウスらへと。ロマンティックな職人芸から、その反動としてのノイエ・ザハリッヒカイトの流行の中に彼もいたはずである。
 たとえばブルックナーである。彼以前の世代は、ブルックナーの交響曲を聴衆を説得するような形で、十全に演奏することはできなかったのではないだろうか。ベートーヴェンの交響曲と同じように、意志的な力演をしようとすると、相当な力量のある指揮者でも凡演をしてしまうのは、現代でも良く耳にするところである。当時は、困難はさらに大きかっただろうと思われる。クレメンス・ヘルツベルグは、シューリヒトを「最初の卓越した忘れることのできないブルックナー指揮者」と読んでいた。
 シューリヒトは、強い個性で楽譜を独自に読み取り、表現しようとしていったのではないだろうか。演奏史という、僕の貧弱な知識を遥かに越える問題を扱っている。自分への宿題としておこう。
 そのような革新的な意図を持ちつつ、シューリヒトはフルトヴェングラーのようなカリスマ的な女性ファンも、持ち得なかった。聴衆の人気も限られている。一地方都市の指揮者であったことも、止むを得なかったのだろう。  先輩の指揮者にも音楽評論家にも聴衆にも、注目されるような表面的に目立つ個性が、彼にはなかったのではないだろうか。しかし、それと音楽の深さとはおのずから別な問題である。
 彼の解釈を、聴きたいと思う音楽はいくつもある。シューリヒトは、マーラーに強い関心を示している。その演奏は、いかなるものであったのだろうか。ブルーノ・ワルターとの比較に興味がある。
 1950年代半ば、七十歳代に入ってからのシューリヒトの音楽のすばらしさは、レコードに記録されている通りである。最近でも、僕達は、ギュンター・ヴァントの大器晩成を目撃してきた。後半生を展望してみよう。

 1930年代は、シュヴェニンゲンの夏のコンサートで演奏している。
 1931年1月4日。ロンドン交響楽団の「スペシャル・サンデー・コンサート」を指揮している。ヨーロッパの金融恐慌が、深刻化した年である。
 1932年。ヴェルサイユ条約破棄・ユダヤ人排斥・トラスト(企業独占の一形態。普通。企業合同と訳されている。)国有化を主張するナチスが、ドイツ第一党となる。
 1933年、ナチスは国際連盟を脱退する。
 1934年、ウィーン・フィルを初めて指揮する。6月30日、ヒトラーがレームを粛清する。7月25日、ウィーンでナチスの一揆が勃発する。ドルフース首相が暗殺されて、8月19日には、ヒトラーが首相と大統領を兼任することになる。
 僕は、別に歴史上の大事件だけを、抜粋しているのではない。シューリヒトの人生の節目が、ヨーロッパの変動の時代と重なっているのである。彼は、このような時代を生きたのである。
 1935年以降、ダンツィヒはナチスの支配する土地となった。
 1937年から1944年にかけては、フランクフルト放送交響楽団の、1943〜44年には、ドレスデン管弦楽団の首席客演指揮者となった。
 1939年9月、ナチス=ドイツが、ダンツィヒとポーランド回廊に侵攻する。第二次世界大戦の開始である。戦火の中でシューリヒト家は、どのような運命を辿るのだろうか。ご存じの方からの教示を受けたい。だれもが気になることだろう。
 1944年7月には、ドレスデンの音楽監督となることを一度は契約する。が、時代はそれを許さなかった。秋にはドイツを離れスイスに移住する。マリア・マーサ・バンズと結婚する。彼は64歳であった。スイス・ロマンド管弦楽団で、エルネスト・アンセルメの助力によって仕事を始める。
 1945年8月。第二次世界大戦終結。ポーランド統一政府が成立する。
 1946年、この年の1月7日に、米、英、仏、ソ連の四ヶ国によって、オーストリア共和国が承認される。10日には、国連の第一回総会が開催されている。ダンツィヒは、ポーランド共和国の都市グダニスクに変容した。故郷の喪失である。
  しかし、シューリヒトはウィーン・フィルを振って、ザルツブルグ・フェスティバルを再開する。承知のように、この年、フルトヴェングラーは、ナチスに協力した罪で、国民裁判の法廷に立たされていた。すみやかな戦前の状況への復元は、連合軍の政策でもあった。ドイツの文学者ヘルマン・ヘッセに、ノーベル文学賞が送られた。
 1954年11月30日、フルトヴェングラーは、南ドイツのバーデンバーデンで肺炎のため、この世を去った。68歳であった。
 1956年。
 この年は、シューリヒトの音楽人生の転換点である。詳述したい。
 1月15日、ムジークフェラインザールのフルトヴェングラー追悼コンサートで、ウィーン・フィルを指揮する。
 続く1月26日。ザルツブルグのモーツァルト週間で、ウィーン・フィルを振ったシューリヒトは、聴衆に多大なる感銘を与える。オール・モーツァルトのプログラムである。彼の振るモーツァルトのリンツ・プラハ・ハフナー交響曲などには、失われた時代と土地への懐旧の念がこもっている。しかし、決して重くも暗くもならない。馥郁と香る優雅で豪奢な天上の花園を、地上に現出させる。高潔な人格が、聴衆を感動させる。この時には、「ハフナー」であった。
 翌1月27日、この日はモーツァルト生誕200周年にあたっていた。ウィーン・フィルを率いて、最初のアメリカ・ツアーを計画していたエーリッヒ・クライバーが、チューリッヒで他界する。この計画は、もともとはフルトヴェングラーの指揮で、1956年に実行が計画されていた。彼の急死によって、1954年11月にクライバーとの交渉がもたれた。彼は、熱意を持ってそれに同意していた。運命は、さらに変転していく。
 ウィーン楽友協会は76歳になっているシューリヒトに、この特別に重要な意味を担う、演奏旅行への参加を要請する。37日間に31回のコンサートを行なうという苛酷なスケジュールから、アンドレ・クリュタンスも同行する。戦勝国アメリカで、ドイツとオーストリアの文化の精華を、正正堂堂と奏でたのである。シューリヒトは1956年11月7日のニュー・ヨークでの初公演を含めて、12回の演奏会を指揮した。ウィーン・フィルは、彼の貢献をニコライ・メダルによって讃えた。
 以下は、この楽団との関係のみを、駆け足にまとめておこう。時代との関係は、省略する。
 1958年、アメリカ・ツアーの成功によって、ウィーンフィルは、シューリヒトとの再度の演奏旅行を計画する。それはスイス、フランス、スペインなどで、計10回に及んだ。
 1960年7月3日、シューリヒトの80歳の誕生日に、ウィーン・フィルは、名誉指揮者の称号を贈った。8月14日ザルツブルグ・フェスティヴァル。
 1961年3月18・19日、ニコライ・コンサート。8月23日ザルツブルグ・フェスティヴァル。
 1962年、ウィーン芸術週間において、聖シュテファン教会大聖堂で、ウィーン・フィルでモーツァルトのレクイエムを指揮する。
 1965年。サルツブルグ・フェスティヴァルが、ウィーン・フィルとの最後のコンサートとなった。 

「老カール・シューリヒトが提示し、また幸いなことにその録音によって後世に残したもの以上に、力強い基本理念、明快な展望、抑制が利いてかつ充実した表現、透徹した造形をもった音楽解釈は考えられない。」

 アーベントロートの洞察は、ウィーン・フィルに限定されるわけではない。が、シューリヒトとこの楽団の、ブルックナーの交響曲第5・8・9番の三曲は生涯の友である。去年の3月に、僕の30年来の友人が自殺した時にも、毎晩のように耳を傾けていた。

A 力強い基本理念

B 明快な展望

C 抑制が利いてかつ充実した表現

D 透徹した造形

 ここに指摘されている四つの長所の内、ひとつないしふたつを持っている指揮者は何人も存在しても、四つのバランスが取れている場合は希有である。ある人はAが強すぎてDが弱くなっている。BはあるけれどもCが不得意であるというように。僕は、シューリヒトの音楽の「C 抑制が利いてかつ充実した表現」という性質をもっとも愛する。それについては後述しよう。

 ドレル・ハンドマンの追悼文に戻ろう。

「彼と語り合う時には、わかりやすい言葉のはしばしに秘められた、何か底の知れない深さに驚かされることが、しばしばありました。」

 ハンドマンの体験は、たしかにそうであったろうと思う。音楽だけを聴いていても、シューリヒトの円熟した人格の深さは確実に伝わってくる。この深さが、どのようにして育まれていったのかを探るのが、本稿の目的である。

「舞台に登場する時の彼は、杖に寄り掛かるようにしていました。一歩一歩を、ゆっくりと踏みしめるようにして歩いていました。年老いて弱々しく、同情心さえも覚えました。歩きながら、観客に挨拶をしていました。善良さと羞恥心の混在するような、独特な微笑を浮かべるのでした。慈愛に溢れる王様の、民との謁見の場のような様子でした。
 万来の拍手を浴びて、指揮台に登ります。実に、慎重な動作でした。それだけのことに、見ているこちらが辛くなるほどの、長い時間をかけていました。コンサート・マスターが手をかしていました。」

 晩年の彼は病弱であった。

「会場の中に、さっと緊張感が走ります。突然、彼が本来の自己を取り戻したからです。力強く、生き生きとしていました。これから、演奏を行なうのだという心の張りが、彼を病苦から解放していました。長い苦しみの歳月に、唐突に終止符が打たれてしまったかのようでした。これこそが、肉体に対する精神の力の勝利というものの実例なのです。」

 この感動的な光景は、多くの人が目にしているようである。

「一たびオーケストラの前に立つや、この音楽家の日常生活にみられる老人の 影が姿を消し、その若々しさと信念が、すべてを変えてしまうのだ。」ロジェ・ヴァンサン (Roger Vincent)

「張りつめたような静寂の底から、最初の一音が生じます。
 神の啓示に従うかのようでありつつ、カール・シューリヒトその人の芸術が、自由自在に繰り広げられてゆくのでした。」

 シューリヒトに対する時に、西洋人が宗教的な敬虔さを感じている光景は印象的である。それとともに、キリスト教の信仰に生きていない東洋の小島の異教徒が、本当に彼のブルックナーの音楽を理解しているのか、疑心暗鬼に捉われることがある。ことの困難は、ブラームスにおいてもモーツァルトにおいても、基本的には同一なのであるが。ともあれ、例証を上げていこう。

 ジャン・アモンは、彼のレコードを聴いて次のように述懐する。

「このレコードはまた彼にとっての神である<音楽>の前に、生涯をかけて謙虚で、しかも絶対的な下僕であった、この魅力溢れる男の精神と知性と心情を、ただ想い出させてくれるだけでなく、その死を超越して、我々がそれ等と直接語り合うことを可能にしているのである。」  

 この感想は、ドレル・ハンドマンのそれと同心円をなしている。ともに、その中心には「神」がいるのだ。以下のハンドマンの演奏会の印象にも、シューリヒトの背後には、「神」がいますだろう。

「その夜のような演奏会は、私にも初めての経験でした。彼という一人の人間が、他の一人に、あるいは何人もの楽団員に分身したのではなくて、どうしてあのようなことが可能になるのでしょうか。
 しかし、それだけでは、あの晩の不思議な経験を説明する言葉としては、なお不足していることでしょう。楽員はもとより、その場に居合わせたすべての聴衆を、その変身に参加させ、彼とまったく同様の経験をさせずにはおかないようなものだったのです。確かに、魔法が、現実に行なわれたのでした。
 もし、そんなものがありえるとするのならば、「白い良き魔法」とでも呼ぶべきものでしょうか。何よりもまず私の心を打ったのは、音によって表現されている、すばらしく透徹した精神の姿でした。それは、いかなる欺瞞をも許さない芸術でした。あらゆる問題点に、最も明快な解答が与えられておりました。非常に複雑な楽譜が、明晰なものになっていました。」

 しかし、シューリヒトは「神の啓示」に頼っていたばかりではない。自己の解釈を「白い良き魔法」のように、楽団員と聴衆に以心伝心のようにして等しく伝達したのである。
 次は、二十世紀の指揮の世界で、もう一人の天才であったフルトヴェングラーとの比較になる。

「楽譜を音化して絶え間なく推進してゆくのは、たぐいまれなる彼のエネルギーでした。しかも、音楽の推進する勢いを、いささかも撓めることなくテンポに緩急をつけてゆく、あのフルトヴェングラーの力とも、何と異なる種類のものだったのでしょうか。」

 これにシューリヒトの音楽が対比される。しかし、その前に「神」と精神との関係が分析されるのである。

「様々に分裂した多様な主題を、互いに関係させ、高め合うような方向へ総合してゆくことは、神に与えられた精神というものに許された、貴重な能力の一つでしょう。」

 神の問題だけではなくて、テーゼとアンチ・テーゼを、ジン・テーゼにまで高めるというドイツの弁証法という哲学の流れを脳裏に置きつつ、ハンドマンは書いているのだろうと思う。ヘーゲルを、シューリヒトは読んでいたのであろうか。

「ルパートは、殆ど使われませんでした。不要なリタルダンドも、一つとしてありませんでした。「スタイル偏重」による音楽自体の犠牲などは、どこにも見いだせませんでした。明晰な音楽の展開と、論理的な構築性を兼備していました。」

 明確な比較である。テンポ・ルパートもリタルダンドの多用も、フルトヴェングラーの演奏の特徴であった。

 ハンドマンがここで上げている三曲は、僕もシューリヒトのCDの中で、もっとも愛聴しているものである。

「しかも、ブルックナーの交響曲第7番の冒頭、第1主題の第2小節に現れる短いラレンタンドは、3度の間隔をもって、最適な時間だけ奏でられていました。溢れるばかりの優しさが、表現されていました。
 モーツァルトのリンツ交響曲の第2楽章の主旋律は、純粋さと繊細な感性の織りなす、光の網の中に漂っているようでした。
 そして、ブラームスの交響曲第4番では、暗く傷ましいメランコリーが、終始一貫していました。
 巧まずして、偉大さというものを表現していました。情熱を抑圧するのではなくて、抑制していました。常に、作品の本源の魂を追って、やまなかったのです。」

「ある人に「ロマン派をどう思うか」と質問されたシューリヒトが、「ダンツィヒ生まれの人間が、ロマン派なしに成長することなどあり得るだろうか」と答えたのは有名な話である。」(前掲の宇野功芳氏の文章より)

 彼は、心の中にある「暗く痛ましいメランコリー」を解き放っている。ハンドマンは、シューリヒトとダンツィヒの運命を知ってこういっているのだ。彼の父親は、ダンツィヒの海に身を投げたのである。その故郷は、もう帰ってこない。
 シューマン・ブラームス・メンデルスゾーンらのロマン派の音楽を指揮する時のシューリヒトは、モーツァルトやベートーヴェンらの古典派の端正な造型美を重視する時の彼とは、アプローチの方法が異なるように思われる。自分に高揚を許容する度合いが高い。しかし、ロマン派でも、なお崩れることのないシューリヒトの「抑制」は尊敬に値する美質である。
 日々の仕事に疲れていても、つかのまの余暇に音楽を聴きたい日がある。フルトヴェングラーとウィーンフィルのブラームスの交響曲第四番の気力に圧倒されてしまうとき、自然にシューリヒトのCDを手にとっている。その音楽は、干天の慈雨のように心に染み透ってくる。西洋人にとっても、この点が彼の特徴として上げられているのは、嬉しいことである。

「『完璧は冷たい』と云われる。《冷ややかな完璧》は、《優秀な巨匠》と同様、慣用語辞典にもみられる語句である。しかしカール・シューリヒトにあって、<完璧>は、熱情、抒情、そして清らかな激情の詩となってあらわれるのである。」ジョゼ・ブリュイル

 「清らかな激情の詩」。このような矛盾した形容をしなければならないのが、彼の音楽の不思議さである。ファンには、納得できる言葉であろう。

  「巨匠シューリヒトの演奏を聴く時、私はいつも限りない喜びを感じ、その音 楽に対する崇高な簡潔さには、いつも限りない賞賛をおくっていました。高 度に洗練されたテクニックが、生来の音楽的直感と結びついて、彼の演奏には、ほとんど素朴ともみえるような心暖まる幅広さがありました。」ロリン・マゼール

 「ほとんど素朴ともみえるような心暖まる幅広さ」が、シューリヒトの音楽にはある。しかし、それは上澄みなのである。底には暗黒がある。シューリヒトの音楽は、「ほとんど素朴ともみえる」が素朴ではない。マゼールの言うように「高度に洗練されたテクニック」の極みである。

「そこにこそ、カール・シューリヒトの偉大さがあったのでしょう。  いや、「あった」というような過去形を使う必要は、何もないでしょう。  ここにあるレコードが、彼の音楽の構想を過去だけのものではなくして、現在に、そして未来にと、永遠不滅のものにしているではありませんか。」

 前述のジャン・アモンと同様の意見である。同感である。そして、再び、神が登場する。つまり、伝統は、シューリヒトにとって自由な個性の発露と、神の啓示をつなぐための通路のようなものであった。

「彼は、特異な個性を、過去のもっとも精妙な伝統というものと、合致させていました。音楽は、喜びであり同時に教えでもありました。構想は、神の許しを受けた啓示そのものでもありました。」

 僕は、音楽評論家宇野功芳氏によって、シューリヒトとブルックナーの存在を初めて知った一人である。十八歳の時であった、もっとも感受性の鋭敏であった時代に、彼のような指揮者とブルックナーの作品に出会う機縁を与えてくれた評論家の、熱情の溢れる文章に感謝しないではいられない。しかし、僕は、なぜかシューリヒトを、長いこと即興的で詩的な直感に頼る指揮者のように考えていた。たとえば、次のような部分からである。ピアニストのリリー・クラウスと比較された直後の文章である。

「彼の表現はまるで自らピアノを弾くように自在であり、モーツァルトの死の匂いや寂寥の影が吹き抜け、即興的に明滅する。あまり練習を好まなかった彼が、一本の棒だけを頼りにたった今音楽を生み出していく。」宇野功芳(「モーツァルトとブルックナー」71ページ・帰徳書房・昭和48年)

 この文章は、「モーツァルトの死の匂いや寂寥の影が吹き抜け、即興的に明滅する。」という部分の主語がない。「彼の表現は」では意味が通じない。 「たとえば、第二楽章の木管のソロには」のような言葉を補うべきであった。その努力をしないで、何となく雰囲気で読んでいた。
 だから、シューリヒトの音楽の背後に、堅忍不抜の楽譜を読みぬく指揮者としての努力があったことに、長いこと気が付かないで過ぎてしまった。宇野氏のせいではない。彼はきちんと書いてくれている。ブルックナーの交響曲第九番、ウィーンフィル版のスケルツォについての感想である。

「それにしても絶妙なのはスケルツォの表現だ。ここだけはヨッフムを遥かに超えている。といっても、何ら特別なことをしたわけではない。テンポといい、楽器のバランスといい、表情といい、ごく自然で、しかも各声部が比類なく冴えており、一つ一つの楽器が意味深く生き、響きは完全に有機的で、すべてが作曲者の理想通りに運ばれる感じだ。」(同上・223?224ページ)

 こんな表現が何の準備もなくて、できるはずがないではないか。宇野氏も書いているように、以下のフルトヴェングラーの表現との比較に、文章の重点がある部分である。

「ことに第九のスケルツォにおける猛烈なスピードと、いやが上にもあおりたてる加速の効果、大きなリタルダンド、意志的にすぎるフォルテ、めちゃくちゃといってよいほどの進行は、ブルックナーの音楽を完膚なきまでに粉砕し尽くしてしまった。」(同上・230ページ)

   ぼくは、「何ら特別なことをしたわけではない。」という部分だけに注目して、シューリヒトの天才の証ととったのである。十八歳の僕には、天才への信仰心のような妙なものがあった。若い自分の才能への、自信のなさへの代償として、世界に余人によっては絶対に変えることのできない、圧倒的な才能が存在していることを信じたかったのである。その弱さに、宇野功芳氏の文章が、すぽんとはまってしまったのだ。誤解の原因は、自分の内部にあったのである。

「常に完全を目指ざし、より優れた演奏をしようと心がけていたシューリヒトは、録音に際しても、細心の注意を怠りませんでした。自分の演奏旅行に携帯し、あるいは楽員の譜面台に置かせたものは、多くの場合、一言でいうと彼独自の「検閲と修正」を経たものでした。
 彼の楽譜には、ある時は繊細な、またある時は荒々しい、様々な線が引かれていました。作品のクライマックスを示した感嘆符などの、あらゆるマークで一杯でした。これらを見ていると、何か神秘的な「哲理」のようなものを、感じるのでした。
 事実、それらは、彼の音楽が生成する場面での、重要な展開の過程を示すものなのでした。」

 ドレル・ハンドマンの報告する、彫心鏤骨の作家の原稿用紙のような楽譜の存在は、そうでなければならなかったのだ。「あまり練習が好きでなかった」というのは、情報が少なかった時代の誤伝ではないだろうか。

「カール・シューリヒトと共に、その音楽に対する献身が、常に私の賞賛の的となっていた、一人の男が失われてしまった。それは演奏する作品の中に、自己のすべてを投入し、芸術の中に真実と純粋さを求めることに生涯を捧げた、偉大な精神の一つなのであった。」ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik 指揮者)

 指揮者のパウル・クレツキー(Paul Klecki)は、次のように書いている。

「カール・シューリヒトを喪ったことにより、音楽の世界は莫大な損失を蒙ったことになる。それは単に優れたオーケストラ指揮者を失ったというだけにとどまらず、シンフォニーの文献(筆者注:この訳語は正しいだろうか。これは、交響曲を解釈するために必要な、何かの種類の文献というような書物ではなくて、総譜そのものを指していないだろうか。)から、偉大な傑作を、深く、また繊細に探求し、我々の前に紹介してくれた、まったく真摯な一人の音楽家を失ったことになるのである。」

 シューリヒトの天才の秘密は、譜面の読みの探求の深さにあっただろう。指揮者として当然の行為だが、そこから読み取ったものを確信を持ってオーケストラに伝達し、音化しえる人は少ないのである。彼の生涯は、この努力のために費やされた。以下は、アーベントロートの報告する高みに登頂するための一歩である。

「私は、ブルックナーの交響曲第7番の録音に先立って行なわれた、ハーグでの興奮に満ちた討論の場面を、忘れることができないでしょう。また、同曲の初演の前夜には、特に金管楽器の担当の楽員だけを集めていました。何度も何度も繰り返して、練習をさせていました。彼の情熱も、ひどく印象的なものでした。華やかな音の強奏に、幾度となくストップをかけていました。けれども、そうした時でさえ、節度のある礼儀正しさを、決して失うことはなかったのです。」

 シューリヒトに天才があるとしたら、それは彼の性格の深みにあった。ハンドマンは、次のようなエピソードを上げている。

「彼のこの礼儀正しさは、生得のものでした。魅力的でさえありました。  6月のウィーンは、ひどく寒い日でした。だれもが、気持ちさえも落ち込んでいました。そこへ、シューリヒトが到着したのです。頭には、バスクのベレー帽。厚いオーバーの襟元からは、大きなマフラーをのぞかせていました。まるで寒中の季節のような、完璧な冬仕度だったのです。この重装備の服装のままで、彼は指揮台に登りました。
 いつもの折りたたみ式の椅子に、腰を下ろしました。その椅子は、以前に私も見たことがあるものでした。彼の献身的な奥様が自動車で、夫のために運んできたものだったのです。  彼が、譜面台をコツコツと叩きました。楽団員は、さっと静まりかえっていました。

「皆さん、私はヨハン・シュトラウスがとても好きです。ここで皆さんと一緒に、そのすぐれた作品のいくつかを演奏できることは、この上もない喜びであります。しかし、私はウィーンの生まれではありません。私の音楽が、あなたたちウィーンの人が持つ、真のウィーン精神から、少しでも、ずれることがありましたら、どうか私を正しい道に、ひきもどしてくださるように、お願い申し上げます。」

 ゆったりした微笑に包まれたこの言葉は、まるで魔法のように、スタジオの中に暖かさと和やかさを導きいれてくれたのでした。そして、結局、ウィーンのワルツやポルカが、彼の考えに、どんな形の訂正も差し挟まれることなく、最後まで演奏されたのです。そのことは、つけ加えておかなければならないでしょう。

「神だ!神だ!」

 その場には、日本人の指揮者である岩城宏之氏が、居合わせていました。私の傍らで、そうつぶやいていました。」

 初めて読むのに、これもまた、なぜか懐かしい光景である。この謙譲の姿勢が、ウィーン・フィルに、あのブルックナーの名演奏を成就させた、源泉の一つであっただろう。

「彼の真情あふれる人間性はいかなるオーケストラをも洗練されたものにしました。」ハインツ・ワルベルグ(Heinz Wallberg 指揮者)翻訳:山口 春樹氏

 ウィーンばかりではない。ベルリンも、バイエルンもシュトゥットガルトもロンドンも南北のドイツ放送交響楽団も、シューリヒトの棒の下で、その十全な個性を発揮していったように思う。彼は自己を主張したが、それぞれの楽団の個性と自発性をつねに尊重した。専横的な暴君には絶対にならなかった。CDには、それぞれの楽団の音が記録されている。

「シューリヒトは、楽団員に対して、いつもは、ごく簡単な指示しかあたえませんでした。まず作品全体のイメージをとらえて、それから細部を検討するようにすすめるのです。しかし、時には音楽で表現したいことに、すっかり心を奪われるあまりに、長い話をしてしまうことがありました。それはいつも、彼が訪れた、その国の言葉でなされました。言葉といえば、彼のフランス語には、何ともいえない品格がありました。まさに、19世紀の落し子でした。 「偉大な国際人」にふさわしい風格でした。」

 宇野功芳氏に、「三流のパリ・オペラ座管弦楽団」(前著・72ページ)という厳しい言葉がある。専門家の耳からすれば、そうなのだろう。しかし、僕は、シューリヒトの厳しい要求に手足のように敏速に反応する、この楽団の献身的な演奏態度が大好きである。品格のあるフランス語によって、シューリヒトはこの楽団を薫陶したのだろう。もっとも宇野氏は、すぐあとで「パリ・オペラ座管弦楽団の方がウィーンより彼の自由になった気もする」(前著・74ページ)と評価している。公平な視点である。堪能なフランス語が、僕がシューリヒトとフランスの象徴主義の詩人の関係を夢想する理由である。

「休憩時間に、彼は、今、録音し終えたばかりの部分を聴き返していました。すでに記号で埋めつくされた、楽譜か何かなのかさえも、わからなくなっている譜面に、さらに記号を書き加えていました。満足のいくものが得られた時にもらす、彼の快心の微笑み。この笑顔の中に、彼に対する私の最も懐かしい思い出が残っているのです。その笑顔は、和やかで屈託がありませんでした。まるで子供の笑顔のようでした。私の心を、強く打ったものでした。」

 巨匠は自分自身を疑うことを止めない。笑顔の思い出によって、ハンドマンは追悼の文章を締め括る。しかし、その前に、もう少し引用をしていこう。彼が同時代の多くの人にいかに愛され、尊敬されていたかということの証明として。

「誰にでも愛され、敬われていたシューリヒト、彼の友人の一人であったことはすばらしい恵みだと思います。逝ってしまった彼の空席は、何物を以ってしても埋め尽くすことはできないのです。」エリザベス・ブラッスール(合唱指揮者)

 宇野功芳氏によってアイヒェンドルフの詩を好むということは知っていたが、ゲーテというのは、ハンドマンの文章によって初めて知った。

「彼は、教養も深かったのです。数知れぬゲーテの詩。殊に『ファウスト』は、全巻から余すところなく、要所を暗誦することができました。同時にまた、滑稽な詩もたくさん知っていました。陽気さを愛していたので、ほんとうにばかげた物語も好んで読みました。自身が、語り手としてのすぐれた天分を備えていました。身についた彼のヒューマニズムは、その演奏からも顕著に感じられるものですが、一人の人間の精神が、伝統との見事な調和を保って円熟している好例と言えるものでした。」

 シューリヒトが、ゲーテの詩や『ファウスト』の、どの章句を暗唱していたのかと想像することは楽しい。ゲーテの詩を一篇、この言葉の花束に編みこんでみよう。訳は手塚富雄氏である。(ゲーテ『ゲーテ詩集『筑摩選書24・昭和27年)

『制約』

なぜかは知らぬ、だがわたしは此処を愛する
この狭い環境が
目に見えぬ優しい絆でわたしをつなぎとめるのだ。
わたしを導く
運命の不思議な手のあることを
わたしは忘れたい、忘れよう。
けれどわたしは予感する、近くに遠くに
なおさまざまな運命がわたしを待っていることを。
ああ、わたしの行路の正しい基準をつかみたい。
だが、いまわたしは他に何をなしえよう、
身を制約の中に置き
めぐみ深い生の力に充たされて
しずかに現在をふみしめつつ 未来を望んで
進みゆくほかは。

 もとよりまったくの想像である。シューリヒトが、ゲーテを好んでいると全く知らない時から、この詩に「時代の流れや聴衆の好みに超然として、あくまで自己の信ずる道を歩み続けた(宇野功芳氏)」彼の人生を連想してきた。今の僕と同じように、彼がゲーテのこの詩を読んでいたかもしれないと、夢想することは楽しい。

 彼に最期の時が迫っていた。1966年の4月のことである。

「昨年の四月のことでした。彼は重い病をおして、『ブランデンブルク協奏曲』の録音に全力を注いでいました。あの時の彼は、実に幸福そうでした。その録音を、今、聴き返してみても、彼が長い間、命を脅かされながらも、かろうじて免れていた死の影が、その長い手を伸ばして近づいているということを思わせる、いかなる痕跡も残っていないのです。この曲のどこを聴いても、尽きることのない生への歓喜に満ち溢れています。」

 今夜は、レコードでシューリヒトのバッハを聴くことにしよう。

「生きる喜び。そうです。おそらく、そこにこそ、カール・シューリヒトの個性の秘密を解く、鍵の一つがあるのでしょう。だからこそ、彼のことを考える時、演奏中の姿と同時に、コルソーのあのバルコニーで、夏の陽光を一杯に浴びて立つ、彼の姿が浮かんでくるのです。青い靄の中にかすんでゆく、湖と山並みを眺めながら、彼は、あのすばらしい微笑みを浮かべて、私にこう言ったのでした。

『人生というものは、生きてみる価値のあるものだねえ』」

 シューリヒトは、「時よ、止まれ。おまえは、あまりにも美しい」とは言わなかっただろう。今を、生きたのである。

 シューリヒトが、スイスに移住する上で尽力をしたのが、指揮者のエルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet)であった。1944年の秋のことである。

「そして、ナチスが数々の術策を弄して彼に迫ったあの大戦中、私は彼がスイスに移り住むのに、手を貸すことができました。爾来、私達の友情は、日を経るにつれてますます深くなっていったのです。」 (音楽雑誌「フランセ・ムジカ」所載)

 1967年1月7日、86歳のシューリヒトは、コルソーで永眠した。コルソー・シュール・ヴェヴェイという土地はどこなのか。ぼくの持っている大まかな地図では分からないのだ。レマン湖東岸のヴェヴェイの、湖水を望む土地ということで良いのだろうか。宇野功芳氏も、ブドウ園のある土地だといっている。ヴェヴェイは、ブドウの産地として有名である。日本人に馴染みの名前を上げれば、チャップリンとオードリー・ヘップバーンが住んでいたはずだ。(たしか、クララ・ハスキルも、この町にいなかっただろうか?まるっきりの、うろおぼえなのだが。)
 シューリヒトを讃える言葉の花束を編むことを意図した、この文章の最後も引用で締め括ろう。伝統や芸術作品のような、重い意味を持つ言葉はよいとして、一人の人間に「偉大」というような形容詞を付けることができるだろうか。しかし、以下の二人は、そのことにいささかもためらっていない。西洋人は、死者の追悼の際に、この語句を使うことが多いらしい。しかし、世俗的な名声や名誉ではないところで、人間は偉大さを継承し、開花させることができる。シューリヒトの生涯は偉大という言葉の真の意味を、現代の人間にあらたに知らしめているだろう。

「そして誠実で慎み深く、事大主義からは遠く離れたところで、ゆっくりと確信をもって花開いた彼の資質を賛え続けることでしょう。古典の偉大な伝統は、彼以上に優れた伝承者を持ち得ないことが、やがて明らかにされるその日まで。」マルク・パンシェルル(Marc Pincherle 音楽学者)

「この人の偉大な模範的な生涯は、完全な胸おどる美の中に偉大な作品の命脈を保とうと、自己のすべてを捧げる芸術家だけが辿りつくことのできる、高い頂の一つとして、いつまでも残っていることだろう。」(「フランセ・ムジカ」所載)アンリ・ゾーゲ(作曲家)

 冒頭のドレル・ハンドマンが指摘した、シューリヒトの「勝利者の相貌」に戻ろう。ハンドマンは友人に、こう語りかけようとしているように思える。わが友シューリヒトよ。君は、誕生のわずか三週間前に父を失い、その美しい故郷は、世界の二度の大戦の内に失われてしまった。しかし、君はそこから立ち上がり、音楽の真の才能を開花させた。指揮の世界での頂点をきわめたのだ。そして、人間として最高の人格的達成をなした。君は人生の勝利者である。私はカール・シューリヒトの音楽を聴くたびに、人生を肯定する気持ちを甦らすことができるだろう。

完 (2003・01・07)

【後記】
 小生は、48歳になるカール・シューリヒトの一ファンです。18歳の時から、30年間、この指揮者の音楽を聴き続けて来ました。楽譜も読めず、ピアノも弾けません。音楽については、まったくの素人です。シューリヒトのCDも、全部合わせても20枚に満たない数しか持っていません。それらは生涯の宝です。本稿の執筆の動機は、正月の休暇中にネット・サーフィンをしていて、偶然にも小林徹氏の『カール・シューリヒト』のHPを発見したことです。丁寧で丹念な仕事の集積に感動いたしました。特に「ある横顔」と「想い出と追悼そして賞賛」の二つの資料を、熟読させて頂きました。この文章は、その時の感動の記録です。新しい資料の提示などは、何もありません。きままな感想を、いくつか付け加えさせて頂いただけです。記して小林徹氏と翻訳者の皆様のご努力に厚く感謝いたします。記述に誤りがあれば、謙虚に訂正していきたいと思います。ご教示を頂ければ幸甚です。
 この文章を書く上では、もうひとつの意図があったように思います。予備校の講師という仕事をしている関係から、クラシック音楽が好きな若者に、毎年、必ず何人か出会うことができます。彼らに共通した傾向に、ある危惧を覚えた事があります。それは、同曲異演には、どのようなCDがあるかというような点については、かなり詳細な知識を持っているのに、音楽家や演奏家が、どのような時代と国に生きたのかという点などについては、ほとんど興味と関心を示さないのです。主に国公立大学の受験生ですから、「世界史B」程度の知識は持っているはずなのです。けれども、たとえばカール・シューリヒトの音楽の理解を深めるために、それらを活用しようとはしないようです。シューリヒトとはいえ、現実に脱俗の仙人であったわけでありません。ある時代と国家に生きた、市民の一人なのです。せっかく貯えた知識を活用しないのは、勿体ない事だと思います。それによって、「ポーランド回廊」のような暗記事項の一つに過ぎなかった言葉が、自分の中で生きたものになるでしょうから。この文章は、そんな彼らと、折々に語った内容のまとめになっています。すらすらと書くことができました。若い人のための、「シューリヒト入門」のような役割を果たせたならば、望外の喜びです。
 カール・シューリヒトの没後35年目の今日、彼の霊前に謹んで拙文を捧げます。(楽古堂主人・大内史夫拝)


同志の皆様へ。カール・シューリヒト氏の音楽と人生について、いろいろと教えてください。申し訳ありませんが、仕事で多忙な折りには、すぐに御返事できない場合があるかもしれません。しかし、必ず返信するようにいたします。ご意見、ご感想は下記までお送り下さい。
E-mail: gandalf@muf.biglobe.ne.jp

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