その横顔

ドレル・ハンドマン (Dorel Handman)

Journal Musical Français No 155 (Mars 1967).


彼は勝利者の容貌をそなえていた:尖ったわし鼻、確信にみちてキラキラ光る眼差し。 彼と語り合う時、その単純さの中に秘められた、何か底知れぬ奥深さに、しばしばハッと させられるのだった。

彼は舞台にあらわれる時、杖にすがって、一歩一歩ゆっくりと進み、ひどく力無い感じさえ 与える。歩をすすめながら挨拶をおくり、善良さと軽い皮肉の入りまじった微笑みを投げかける。 その様子はまるで慈愛に溢れる王様のようだ。
万来の拍手を浴びて、彼は指揮台に登る。注意深く、それだけの動作に、見ているのが 辛くなるほどの時間をかけて、、、。コンサート・マスターが彼に手をかす。会場の中に 緊張が高まる。突然彼は本来の自分をとり戻す。力強く、生き生きと、まるでこれから 演奏を行なうのだという心の張りが、彼を病気から開放し、その長い苦しみの年月に、 だしぬけに終止符が打たれてしまったかのように。これこそ肉体に対する精神の勝利というもので あろう。

張りつめた静寂の中に、最初の音がおこる。
そうして、カール・シューリヒトの芸術が、自由に、天の啓示に従うかのように繰り広げられて ゆくのであった。

このような演奏会は、はじめての経験だった。彼の中で、ある一つの存在が、他の一つ あるいはいくつかの存在に転化したのではなくて何であろう。しかもそれだけでは満ち足りず、 楽員はもとより、その場に居合わせたすべての人を、その変身に参加させ、彼とまったく同様の 体験をさせずにはおかない。確かに魔法は行なわれたのだ。
もしそんなものがあるとするなら白い魔法とでもいおうか。何よりもまず私の心を打ったのは、 音によって表現されている、すばらしく透徹した精神であった。それはどんな偽善をも許さない 芸術であった。あらゆる問題点に最も明快な解答が与えられており、非常に複雑な楽譜が 明瞭なものになっていた。

楽譜を絶え間なく推し進めてゆく、たぐい希な彼のエネルギー―音楽の勢いを撓めることはないが、 そのテンポに緩急をつけてゆくあのフルトヴェングラーの力とは、何とちがうことか。様々な本質を、 互いに補い合い、たかめ合う方向へもってゆくことが、精神に許された貴重な特権の一つなのである。

ルバートは殆ど使わず、ひとつとして不用なリタルダンドはなく、<スタイル偏重>による犠牲など 全くない:明解な運びと論理的な構成。しかも、ブルックナーの交響曲第7番の冒頭、第1主題の 第2小節に現れる短いラレンタンドは、3度の間隔をもって、丁度良い長さだけ、溢れるばかりの 優しさを表現し、リンツ交響曲の第2楽章の主旋律は、純粋と感覚の織りなす光の綾の中にただよっている。 そして、ブラームスの交響曲第4番は、暗く傷ましいメランコリーに貫かれている。

巧まずに偉大さを表現し、情熱を、省くのではなく抑制し、常に作品の魂を追ってやまない。
そこにこそ、カール・シューリヒトの偉大さがあったのだ。

「あったのだ」?

ここにあるレコードが、彼の音楽上の構想を過去だけのものでなく、現在に、そして未来にと 不滅のものにしているではないか。特異な個性を過去のもっとも混じり気のない伝統と合致させ、 同時に、喜びであり教えであり、神の許しを受けた示唆でもあるその構想を。

常に完成を目指して、より優れた演奏をしようと心がけるシューリヒトは、録音に際しても、 細心の注意を怠らなかった。彼が演奏旅行に持って行き、あるいは楽員の譜面台に置かせたものは、 多くの場合、一言でいうと”検閲と是正”という彼独自のものだった。彼の楽譜は、ある時は繊細な、 またある時は荒々しい様々な線、作品の山場を印した感嘆符など、あらゆるマークで一杯だった。 これをみると、何か神秘的な”層理”のようなものを感じる。そして、事実それは、彼の生成の上での 重要な進展を示すものなのだ。

私は、ブルックナーの交響曲第7番の録音に先立って行なわれた、ハーグでの興奮に満ちた討論の場面を 忘れることができない。又初演の前夜、特に金管楽器担当の楽員だけを集めて、何度も繰り返し練習させた、 彼の情熱もひどく印象的だった。彼はその華やかな音の展開に、幾度となくストップをかけたが、 そうした時にも、決して節度をもった礼儀正しさを失うことはなかった。

彼のこの礼儀正しさは生来のもので、魅力的でさえあるものだった。6月のある日、ウィーンはひどく寒く、 だれも気持ちが沈んでいた。そこへ着いたシューリヒトは、頭にバスクのベレー帽、厚いオーバーから 大きなマフラーをのぞかせて、まるで寒中のような冬仕度だった。この用意深いいでたちのまま、 彼は指揮台に登り、折りたたみ式の椅子に腰を下ろした。その椅子は、以前私も紹介されたことのある、 彼の献身的な奥さんが車で運んできたものだった。彼が譜面台をコツコツたたくと、団員はさっと 静まりかえった。

「皆さん、私はヨハン・シュトラウスがとても好きですし、ここで皆さんと一緒に、そのすぐれた作品の いくつかを演奏できることは、この上もない喜びです。でも、私はウィーン生まれではありません。 私があなたたちウィーンの人が持つ真のウィーン精神から少しでもはずれることがありましたら、 どうか私を正しい道にひきもどしてくださるようお願いします。」
ゆったりした微笑に包まれて、この言葉はまるで魔法のように、スタジオの中に熱気と和やかさを 導きいれた。そして、結局、ウィーンのワルツやポルカが、彼の考えに、どんな形の訂正も 差し挟まれることなく、最後まで演奏されたことをつけ加えておかなければならない。「神だ!神だ!」 その場に居合わせた日本の指揮者、岩城宏之氏が、私の傍らでつぶやいていた。

楽員に対して、シューリヒトはごく簡単な指示しかあたえない。まず作品全体のイメージをとらえ、 それから細部を検討するようにすすめる。しかし時に彼は、音楽で表現したいことにすっかり気を奪われて、 長いこと話をしてしまうことがある。それはいつも、彼が訪れていったその国の言葉でなされた。 言葉といえば、彼のフランス語には、何ともいえない品格があった。まさに19世紀の落し子であり ”偉大な国際人”にふさわしい品格だった。

休憩時間に、彼は今録音し終えたばかりの部分を聴き返しながら、すでに記号で埋めつくされ、 楽譜だか何だかわからなくなっている譜面に、さらに記号を書き加えていた。満足なものが得られた時にもらす 彼の快心の微笑み、この笑い顔の中に、彼に対する私の最も懐かしい想い出が残っている。その笑顔は 和やかでくったく無く、まるで子供の笑顔のようで、私の心を強く打ったのだった。

教養も深く、数知れぬゲーテの詩、殊に”ファウスト”は全巻余すところなく暗誦することができた。 同時にまた、滑稽な詩もたくさん知っていた。陽気さを愛し、ほんとうにばかげた物語も好んで読み、 自身、語り手としてのすぐれた天分を備えていた。身についた彼のヒューマニズムは、その演奏にもみられ、 一人の人間の生命が、伝統との見事な調和を保っているのだ。

昨年の四月、彼は重い病をおして”ブランデンブルク協奏曲”の録音に力を注いでいた。 あの時の彼は、確かに幸せそうだった。その録音を今聴いてみても、彼が長い間脅かされ続けていながら、 かろうじて免れていた死の影が、その手を伸ばして近づいているなどということを思わせる何物も 持っていない。この曲のどこをみても、尽きることのない生への歓喜にみち溢れているのだ。

生きる喜び、おそらく、そこにカール・シューリヒトの個性の秘密を解く鍵の一つがあるのだろう。 だからこそ、彼のことを考える時、演奏中の姿と同時に、コルソーのあのバルコニーで、夏の陽を 一杯に浴びて立つ彼の姿が浮かんでくるのだ。青い霧の中にかすんでゆく湖や山脈に眼をやりながら、 彼は例のあのすばらしい微笑みをみせて、私に云ったものだった。

「人生というのは、生きるだけのことはあるものだよ」


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