もう一つやろうとしていたのが、「きもの博物館」の設立でした。
当時、防衛庁長官だった中曽根康弘氏の協力を得て運動していたようで、
昭和45年2月3日の「東京新聞」夕刊に、「長かった日々―きもの博物館実現へ」
という一文を寄せています。そこには、中曽根氏から電話があり、きもの博物館の
予算が取れたと伝えられたことが、書かれています。
そして、
「建つのは千葉県佐倉である。歴史博物館とともに9万坪の広い敷地の中に、 きもの博物館はちいさいかあいい宝石のように光って見えるであろう。」と書いています。
「わたしの森田たま」の中の中曽根氏の文にも、
「きもの博物館を発願してからは私は鬼の捕虜になったようなものであったろう。 神社にお賽銭をあげるような、仏前の水をかえるような、捕虜の習慣性で 働かされたような気がする。」
とあります。
現在佐倉には、国立歴史民俗博物館(歴博)はあります。
そしてそこには近世の着物に関しては野村正治郎コレクションを始めとして立派な収蔵品があるそうです。
しかし独立した「きもの博物館」は存在していません。
これは私の単なる推測ですが、何らかの理由で2つの博物館の計画が統合されたのでは
ないでしょうか。つまり、