森田 たま略年譜

森田 麗子氏作成略年譜に基づき、補足および作品引用致しました。
最終更新:令和3年7月5日


明治27年(1894)12月19日北海道札幌市に生まれる。父、村岡治右衛門、札幌共同運送(株)社長、秋田県人(秋田県山本郡藤琴村)。母、よしの、淡路島の人。一姉一妹があった。
「南一條東四丁目、さういふところに私は生まれた。」もめん随筆「ふるさとの若き女性へ」より)
「その日は当時の北海道でも珍しいやうな大雪の日であったさうで、私は当然、ゆき子とかみゆきとか名づけられていいはずであったが、父は何を思ったのか、たまと命名した。
いまでは自分の名前をきらひではないけれども、子供の時分はこのために人知れぬ苦労をした。何かといふと遊び仲間から、お玉じゃくしが蛙に化けたとはやされるのである。かっちゃんといふ子がゐて、その子はまた、かっちゃん数の子鰊の子とはやされてゐたが、私はお玉じゃくしよりもまだしも数の子の方がいいと思った。」
随筆ゆく道「わが道」より)
「父は秋田の人間で、しかし祖先は京都の出で平親王将門の後裔だといふのが父の誇りであった。」もめん随筆「故郷をさがす」より)
幼時の思い出、特に異母姉雪については、続もめん随筆「姉」に描かれている。
明治40年(1907)庁立札幌高等女学校を高等2年(今の小学6年)から受験し合格。
明治42年(1909)一年間病床に臥し、遂に学業を廃する(同窓会名簿に上野山しづ(素木)と同学年に掲載)。
明治44年(1911)雑誌「少女世界」に投稿した文章が認められ、上京する。同年、婿養子を迎える。
「十七の年の夏、家から火を失して何もかも焼いてしまった。翌くる朝焼跡へいってみたら、自分の部屋の本箱をおいたあたりに、うづ高く焼けさしの本が重なっていた。」(随筆 貞女「貯金」より)
「私は子供の時からの許嫁と、とにかく一度結婚したのだけれど、どうにもうまくいかなくって、話しあひの上別れてしまった。」随筆きぬた「神楽坂時代」より)
この結婚相手との「性格の相違」は、ささいな仲違いを通して続もめん随筆「秋夜つれづれ」に描かれている。
「東京の土を初めて踏んだのは、明治四十四年の秋、― 九月一日であったとおぼえてゐる。」(続もめん随筆「最初の東京」より)
大正 2年(1913)森田草平先生に師事、最初の作品「片瀬まで」が「新世紀」九月号に掲載される。
大正 3年(1914)茅ヶ崎の南湖院で自殺をはかる。(もめん随筆「愛情について」参照)
「二十一の夏から二十二の夏まで、ちゃうどまる1年間、私は神楽坂の「島金」といふ料理屋の横丁をはいった、路地の奥に住んでいた。湘南の病院から死に損ないの恥さらしの身体をまっすぐその家へ運んだので、あたりまへなら山の奥へでもかくれてしまう筈のところを、私はかへって巷の喧騒の中へ身を置きたいと考へたのであった。」随筆きぬた「神楽坂時代」より)
二十二歳の夏、札幌に戻る。その頃の心境については、はるなつあきふゆ なつの章「札幌」に詳しい。
大正 5年(1916)慶応義塾大学理財科学生森田七郎(大阪中河内の庄屋の息)と知り合い 大恋愛の末、婿養子と別れて結婚、文筆を絶つ。
大正 7年(1918)長女麗子出生。
大正10年(1921)長男信出生。
「震災の前年からその年へかけて池袋に住んでゐた。(中略)その頃はわけても神経質であった私が、胃腸の弱い子供を気づかって殆どそとへ出さないのをおくさんはあわれがり、毎日のやうに連れていって遊ばせてくださった。」もめん随筆「木綿のきもの」より)
大正12年(1923)関東大震災に遭い大阪へ疎開、千里山に住む。
「十数年前大阪郊外の千里山に暮らしていた頃、私のところは出入りの商人たちから銀行さんと呼ばれていた。普通の文化住宅なのだけれども、階下の洋室が一ト間、吹田のある銀行の出張所になっていて、私たちは銀行に部屋借りをしていたのか、銀行の方で私たちのところに部屋借りをしていたのか、そこのところはよくわからないけれども、家賃は銀行が払っていたのだから、どうも私たちの方が居候であったかもしれない。続もめん随筆「銀行さん」より)
大正14年(1925)上京して、夫と森田書店を経営、円本の攻勢にあい再び大阪に帰る。
昭和2年(1927)7月24日、芥川竜之介自殺。(もめん随筆「芥川さんのこと」「七月廿四日」参照)
昭和 7年(1932)夫の実家の没落の渦中、森田草平先生が来阪、急に思い立ち一晩で「着物・好色」を書く。「中央公論」十月号に掲載される。(はるなつあきふゆ「西宮」参照)
昭和 8年(1933)渋谷金王町に住む。(翌九年に中野打越町へ、十年に中野大和町、続いて中野橋場町へ移る。)
「渋谷の金王町といふところに住んだのは、わづか八ケ月ばかりのことであったが、思ひ出の多い町であった。終点で電車を降りてすこし引返し、右手の小路をはいって、またすぐ左へ折れる。そのつきあたりに、古びた塀の上から、無花果の大きな葉がさし出てゐる家があって、それが私たちの借りた家であった。門をはいると玄関と台所が一ト眼に見えて、そのまん中にゆさゆさと葉の茂った杏の樹が植わってゐた。」婦女讀本「金王町」より)
昭和11年(1936)「もめん随筆」を中央公論社より出版、ようやく経済的な余裕を得る。
昭和13年(1938)牛込区矢来町41に転居。
昭和14年(1939)十月から十二月まで中央公論社特派員として、上海、南京、漢口へ行く。陸海軍人をはじめて知る。
昭和16年(1941)十月八、九日札幌で講演の後、十日北海道大学へ中谷宇吉郎氏を、 谷川徹三、阿部知二両氏と訪ねる。(針線餘事「ふるさとの雪」参照)
昭和18年(1943)三月、海軍報道班員として南方へ派遣される。病に倒れ十一月帰国。 富永少佐とともに進めようとした「一日も早く戦争をやめる運動」は不可能となる。 長男信、十二月に学徒出陣。
昭和19年(1944)神奈川県鎌倉山に移る。
昭和20年(1945)終戦。長男信、ポツダム中尉となって帰還する。
昭和22年(1947)十二月烈風の日、自宅より失火全焼する。
「風のつよい日であった。みんな出かけて、幼児二人と女中二人と私だけが 留守(ママ)をしてゐた。三時すぎ、長女が鎌倉からかへつてきて、おそい昼食をすまし、 お向うの進駐軍のKさんのお宅へちよつと用事があつて出かけた。と、五分とたたないうちに 長女が何か叫びながら走つてくる。つづいてミセスKも走つてくる。 水、水、お風呂場のえんとつですようツと聞こえたので、私もはつと台所へ飛んでゆき、 バケツバケツと叫んだ。しまつたと思つた。今日はお風呂をやめさせようと思ひながら それを伝へぬうちに、女中がたいてしまつたのである。ほんの十分のちがひであつた。 いつもは、必ずききにくる女中が、うつかりたいてしまつたのも、魔がさしたといふのか、 各自ふしぎな油断があつた。」(苔桃「失火の記」より)
昭和27年(1952)鎌倉山を引払い、東京青山に移り住む。
昭和29年(1954)六月、国際ペン大会日本代表として、アムステルダムの会議に出席。 その後十三ヶ国をまわって十一月帰国。
昭和37年(1962)自民党の推薦により参議院選挙に立候補し当選。国語問題に取組む一方、 きもの博物館設立に奔走。
昭和41年(1966)七月ヨーロッパ再訪、九月帰国。
昭和43年(1968)参議院議員を退く。勲三等宝冠章を受章。
昭和44年(1969)目黒区東山へ新築転居。
昭和45年(1970)十月三十一日、慶応病院にて死去。従四位に叙せられる。

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