白百合に代へて

南部修太郎

 昨年の秋、母堂清水千代子氏の筆になる『永劫に』を冒頭として、その後『令女界』に『若草』に相ついで發表された亡き清水澄子さんの遺稿は度ごとに深く私の心を惹きつけた。そして、今その遺稿を集めた悲しき形見の『ささやき』全篇をあらためて校正刷で一讀する事を得た私は、驚異新なるを感じた。十七の乙女、その短い生涯のまだうら若い心の跡を語るものとして、すべてはあまりに美しい、あまりに深い、あまりに優れた文章だからである。そしてそれだけに今は返すによしないその傷ましい死を思ひ偲んで、私はたゞ瞼熱きを覺えたのであつた。
 思ふに、澄子さんの不幸は世の常ならぬ、たとへば天才的とも云ふべき卓越した心の持主だつた點にあらう。そして、その心は同じ年頃の乙女達の到底思ひもよらぬ境地に何かを見、何かを感じ、何かを考へながら、因襲を厭ひ、虚偽を憎んで、眞實の道に生きようとし、また自由の野にあこがれてゐた。が、それが不可能であつたばかりでなく、理解と云ふ一人の温き友さへも得られなかつた。そこに來た孤獨の疼くやうな寂しさ、それが先づ何よりもの心に死を願はしめたのではなかつたか?而も、更に傷ましい事には、澄子さんは自分でも自分のさう云ふ心の貴さを認める事が出來なかつた。若し出來たら、理解を求めて人に訴へ、せめてもその寂しさを慰め得たであらう。が、澄子さんは反對に自分の價値を否定し嫌惡して、母堂の詞を借りれば外では『快活で、敏捷で、はきはきした』娘らしく装ひながら、内では深く悲しみ悶えてゐたらしい。そして、そこに來た自分への絶望が更に死への安息を願つたのではなかつたか?多くの人達によつてその死の重大な動機とされてゐる學業の不成績、そんな事は動機としても寧ろ些細なものであらうと、私は思ふ。
 要するに澄子さんの死は、十七の乙女としてはあまりに非凡だつた心の編みなした悲劇である。その意味でそれはまた遁れ難き一つの宿命だつたとも云へよう。が、その死の辿り方に一糸亂れもなかつた點から推しても、恐らく澄子さん自身としては心靜に寧ろ樂園をさへ思ひ描きながら、浴後のほとぼりのまださめきらない、美しくも清らかな處女の身を冷たい鐵路の上に横たへたのであらう。それは殘れる者から思へば、なぜ生きるためにもつともつと強く戰はうとはしなかつたか?どこまでも生きぬいてなぜその貴い心をもつともつと育てようとはしなかつたか?さうも悲しく惜しまるゝ若き命である。然し、澄子さんにとつては死の行手は寧ろ一つの光明であり、一つの希望だつたに違ひないのである。
 私はあらゆる自殺を否定する。いや、憎みさへする。が、今、澄子さんの靈前に對してはたゞ涙とともに口を噤みたい。そして、澄子さんの第二の貴き命として蘇へつたこの『ささやき』を手にする事によつて、私は世の親なる人達、とりわけ世のヘへの道に携はる人達とともに、そこに何かの暗示を感じ、何かの反省を持ちたいと思ふ。云ふならば、それこそ澄子さんの傷ましい死に對する何よりの追善ではあるまいか?
 白百合に代へて、私はこの一文を亡き人の新しき墓前にさゝげる。

大正十五年一月二十三日夜。


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