封書(柏木四〇五 服部 貞)


桜の花が咲きさうな雨
ねと赤んぼに添へ乳をして
ゐた姉が申しました。私ハ
また手紙でも書くのにふさ
はしい晩だと思ひました。
さてそのやうな手紙を送
るに適當した人をさがすに
も及びますまいからあまり
御不沙汰してゐたおわびに
伺ひ出ました。
雑誌をおかへしにあがらう
と思つてゐた矢先に風邪を
ひいておまけに目の上や鼻
の中におデキが出来たの
ですつかり顔の道具がい
びつになつたものだからお湯
にもゆかずにひつこんで居り
ます。
もう一と月もたちましたし
するからこれがなほつたらす
ぐにもまゐります。さあいよ
/\となつたら生憎なもので
おできが出来たりなんかして
口惜しくて仕様がありま
せん。
それから先生私少しば
かり友達の家へでも行つて
遊んで来ようと思ひますが
ようございませうか 羽生へと
も思ひましたが千葉の友達
が来い/\といふものですから
その氣にもなりました。
さくら餅をいたゞくたびに
美知さんとしてよくあれを
買ひに行つた羽生の町を
おもひ出しますの。
過去といふものは何故かう
も懐しいものなのでせう
過去のなつかしさに連れて
人までが懐かしくなります。
篩でふるつたやうにいゝとこ
ばかりが残つてゐてと山田
さんもこの間初代の家のこ
とをなつかしんで来ました。
九月末姉の病氣とてあ
そこを出たまゝつひ/\か
へられぬことになつてしまつて
今日考へてみたらもう半
年になりますの 吃驚して
しまひました。
別段未来といふものに對
して格別の期待を持つて
居ないのだけれどそれで
居て猶こんな筈ぢやなかつ
た/\と現在を呪い
ます。その呪はれた現在
もまた過去となればあの
頃はまだよかつたけなどゝいは
れる。
先生に笑はれか知れないけ
れどなんだか今夜はこん
なことが書いてみたくなりま
した。青年はもう我々の
對手ぢやないなどゝ仰言
る四十歳ばかりになられた
先生といふことは今私の
念頭にないのかもしれません。
手紙を書かうと思つてもう
つかりしてゐると書けなくな
つてしまふ。先達ては前
田さんのひさのさんにあげる
手紙を二週間の上もかゝり
ました。こんなことはまあど
うでもようござんす。私は
この頃今までわかつて居た
つもりのことがすつかりみんな
はねが生えて来てともすれば
飛んでゆきさうで仕方が
ありません。これが本体だ
と思つてしつかり握つたつもり
のものがいつの間にかぬるりと
鰌のやうに指の間からぬけ
出されてなんのことはない鰌
の桶の中を平手で掻き廻
して居るやうな心持ちです
もう別段眞剣になつてつか
まうとする心もないがさればと
いつてぬる/\と手に觸れ
てはまたぬらりともぐり込
む手ざはりを面白く感じ
ないでもありません。
丘の上の家に居た夏中はど
うしてあんなにあせつたかと
今では不審に思つて居ります
何か為なくてはならないと思
ふ心がそれが出来ないので焦
慮つたのでせうがこの頃は
少し何か為なくてはなら
ないといふ心の熱心が缺けて
来ました。張りが抜けてしま
つた。
こんなことをいつたらまたもう
藝術を止すつもりかなどゝ
皮肉を仰言るのでせう
併しさういはれると私はまだ
腹が立つのですから御安心
なすつて下さい。えゝ腹がた
ちます、口惜しいと思ひます。
さうぢやないか ねえ私の心よ
お前は藝術といふものに對
してお前の心の全部を捧
げてゐる、少くも捧げよう
と心かけて居る。誰だつたか
に貴女の藝術は貴女の
宗教になつてゐるとまで云
はれたのですもの。
包むに馴れた感情無神経
なやうにみせかけてその實人
一倍あれこれと感じたり
考へたり、左様でございます
ねといふ言葉の下皮に手に
取るやうな心の呟きを聞き
分けてうむ/\と頷いてやる
手加減はいつの頃から覚え
ましたやら、それでもあまり
に人の前に馬鹿に見えるこ
とがわれながら悲しくなつて
二十四にもなつて!と歯を喰
ひしはることがないでもありま
せん。なんの為めに?と反
問してはお前が好きでさう
なつたのぢやないか!と一喝
される。藝術はすべての苦
悩苦痛をより多く歓迎
するのだと思つてはさうだ!
とばかり元氣が出てまゐ
りますが仕様のないもので
私の心はその都度に勞苦
に對する報酬をのぞむの
念に燃えて来ます。さうして
その報いられるものは何なん
でせう?藝術の園の月桂
冠?
先生、かう思つたら最後私
はどうしてもまた力が脱けて
しまひます。それが得られ
たとて何になるのでせう。
今時今更こんなことをこと新
らしく言はでものことですが
そんなことは考へないこと/\
考へたら行き道がないんだ
からたゞ働け、たゞ働け
といつでも最後のことはさらり
と思ひ捨てゝしまふもので
すから、いつになつても新らし
くそれが出てまゐります。
まあ考へないのが一番と思つて
居りますがその外に何か別
な方法があるものでせうか。
家といふものがある。主人がある
主婦が居る。子供があり女
中がゐる。さうして洗濯をし
たり炊事をしたり掃巾がけ
をしたり縫物をしたり食べ
たり飲んだり、これが日常
生活といふものなのでせうが
私にはこれらは皆假りの生
活のやうな氣がして眞剣
になつてその中に働くことは
どうしても出来さうであり
ません。みんないゝ位にあつさ
りとして置いた外に何か
したい。これらのことはみんな
眞實の生活に趣く道草
に過ぎないのだ、とやらに思はれ
て仕方がありません。さて眞
實の生活つてものはなんだと
聞かれゝばわからなくなつてし
まふ。ありさうでないんですも
の。たゞさういふ氣がしてど
うしても一生懸命にお掃
除したりなんかする氣にな
れなくなりました。今度は
戸棚をこしらへよう今度
は箪笥を買つたなどゝそれ
を珍重してゐるのをみると
なんだか滑稽な感じがしま
す。
まあ眞實の生活つてものに
近い雛形をあげればそれに
はいゝ位つていふものは断じて
許されないものでなければなら
ない。喰べたいものは喰べたい
だけ喰べる。寝たい時には
寝たいだけ寝る。遊びたけ
れば遊べ着たければ満足され
るだけのものを着よ。風邪
をひいたらやすめ、指を切つた
ら繃帯をして大切にし――
つまりなんでも本能のまゝに
振舞ふことかも知れない。苦
痛を感じない程度に於て道
徳の制限を受けたる本能
的生活――先生大変な
ことを言ひ出してしまひまし
たわね。つまりこんな生活
でもしたら少しは生き甲斐
があるかも知れない。ところで
そんな生活はありようが
ないのだからいゝ位にしてゆ
くより外はない。それを出来るだけ
充實させてゆくといふのが眞
面目な態度でどうでもいゝと
いふのは少し誠實を欠いて
居るわけなのでせう。
なんだかまあ無暗に書きな
ぐりましたこと。今夜はよ
つぽど、私どうかして居ます。
雨がしめやかに降る。
もう一時になるでせうからおし
やべりはやめませう。
半頁の習作もない半
年間の収獲はこんな不誠
實な心でした。それもいつかは
役にたつ時が来るでせう。
まあ何事にも價値を認め
ることゝしてこれからぽつ/\
と勉強をはじめませう。
先生さようなら、そのう
ちにお伺ひいたします。
奥さまによろしく。
 二月十四日夜
 貞
先生
 御もとへ


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