先生、際限もあく御不沙汰いたして居りました。
お変りもなくお過しでらつしやいますか、そして皆
々様も。私は四五十日前に須賀川の家を
出てこの近くの温泉場に来て居りましたが、こゝ
へは先月の二十日に移つてまゐりました。こゝは猪
苗代の湖畔で、宿から四丁ばかりゆくと静かな
波が光つて居ります。前にゐたところも涼しう
ござんしたけれど、こゝは何しろ峠を一つ越してくる
ものですから一層風が冷たく、雨勝ちなこの二三
日は涼しいといふよりも寒いといふ方が適当な位
でございます。も一度位は少し残暑らしい日が
来るかと思つて居りますが、とにかくこゝに来てか
ら一日だつて浴衣で居られる日はありませんでし
た。家の前には川があり(湖水から出て安積疎水
となる)部屋の腰窓を開けるとすぐそこから稲
田がつゞいてゐるという風で、静かなのは随分静
かでございます。湖畔には西洋人の別荘が二つ
ばかり建つてゐます、其他にも西洋人はかな
り来て居ります。
前の温泉宿は人の出入りがはげしくて煩さかつた
けれど、こゝはこんなに静かなのですから、少しは書
き物でもする氣になるかしらと自分の氣持ち
を待つて居ましたけれど、こゝに来てから體の調子
や何かに落着かないところがあつてやつぱり駄目
でした、もうこゝは私には少し寒むすぎるかも知れ
ません、といつてまだこの土地を味はひつくしてもゐ
ないので去るのも残り惜しく思つて居ります。ま
ゝならぬ體をもつて朝晩必ず雨が降つても風が吹
いても散歩をやめない西洋人を羨しく眺めてゐま
す。ほんとに思ひの外嘘のやうに弱くなつてゐるも
のですから、よつぽど注意をしないとすぐ體に及
ぼして来ます。そのくせ顔や手は眞つ黒くなつて
少しも病人らしくは見えないのですけれど。
実は私この二三日まへに先生に手紙を書きかけまし
たのです。その日は四五日来體のぐあひがわるくてゐ
て、一番頭痛の烈しく熱もあつた日でした。多分風邪
だつたのでせうけれど、一軒家に近いものさびしい他
人の家の一室に、つぎだらけな蚊帳をつつて寝てゐる
自分の姿が妙に寂しく考へられて、若しやこのまゝ病
氣が重つてこゝに寝込んでしまふのではないか、今度
こそ駄目なのではないか、この湖畔が自分の最後の地
となるのではないかといふやうな考へが、拂つても
/\襲つてきてひとりで其空想に泣いてゐました。そ
してそう思ふとそれまでに言つておきたいこと書きと
めて置き度いことがむらがつて胸に押寄せて来るので
した。第一私は自分の意識が確かなうちに極めて静か
な心もちでみんなにお別れをのべたいと思ひました。
さうして自分ごとき者が死んでも決して皆様の損失に
はならないこと、それ故に假りにも哀惜しては下さる
な、なぜならばそれは斯くなるべくして生れて来たも
のであるに違ひないのだから、若しも私の生前に何等
かの期待するものがあつたにしても、それはさう見え
たに過ぎぬ幻影で決して實體を持つてゐるのではなか
つたのです。と自分の本體をあきらかにし、さうして
人々の幸福を祈らうと思ひました。こんな氣持ちのう
ちにふと思ひついて先生に手紙を書かうと思ひ立ちま
したのです。とにかくいろんな事をかゝうと思ひまし
た、それは若しも私がやつぱり死んでしまつたならば、
一つの遺書とも見られうべき性質のものに。ところが
書きかけてゐるところへ友達からたつた一人の子を失
くしたといふ通知がまゐりました。さうしてその黒枠
の端書をぢいつと見入つてゐるうちに、私の心はその
友達の不幸の上に分離してゆきました。いろんなこと
を考へさせられました併しもう決して自分のことばか
り考へてゐるのではありませんでした。かうしてつい
に其手紙はお流れになつてしまつたのです。翌日にな
ると大分熱が下つてゐました、そのあくる日はもつと
下りました。そして夜があけれやうにだん/\私の氣
持ちは明るくなつて来ました。最初の意志どほりかう
して先生に手紙は書いて居りますけれど、もう其時の
やうな氣分では書いて居りません、今度はもう少し生
き得る人間が書いてゐるのですから、大分むだな餘裕
を持つて居ます。ほんとに馬鹿らしうございますね、
先生にはたゞ可笑しく思召されるでせう、併し病んで
ゐる者には死を是認してしまはなけりや安心が得られ
ないのです。ですから私は悪くなるたびにいつもいち
早く死を覚悟します。かうして死ぬ積りになつたり生
きる氣になつたり、其氣持ちが體の調子につれて交る
/\にやつて来ます。併し今度のは全くの風邪だつた
かもしれません。
こゝに来ました翌々日湖水に一人の女が身を投げて死
にました。其女は私のこの隣りの部屋に一晩泊つて行
つた女でした。見る影もなく病にやつれた女でした、
其女の事を考へると私も苦しくなります。彼女は若し
や死ぬ積りではないかと心密かに思つてゐた矢先、そ
れは全くの事實となつて現はれましたものですから
……私は波になぶられてゐる彼女の屍を見ました。
漸く稲田の上に日が照りかけました。私のからだのや
うにいつまた急にかげつて来る空かもしれませんけれ
ど、ともかく今のうちに久しぶりで少し歩いて来よう
かと思ひます、とにかく確かな足取りであの稲の波の
中を歩いてまゐりませう。
奥さまにどうぞよろしくお傳へ下さいませ。
九月五日 てい
先生
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