赴任地より

「白影」第二(明治41年6月)潮社出版部 28〜32頁


 何となく心落ちつかでつひ/\ご不沙汰いたし居り候。出立の際は何かとお心添へに預り、遠ゐところをわざ/\のお見送り、嬉しく有難く、あらためて茲に御禮申上候。取り敢ず端書にて申し上げ候通り、上野よりの八時間何の恙もなく、たヾ/\初旅の身の心細さに、悲しきお別れの折の涙は、ひき續きてそヾろ痛む胸に重ねたる袂をうるほし申し候。前の驛より車内に燈《ともし》は入りて、互にもの言はぬ人々の顏に、疲勞の色見え渡りたる午后五時も半ば過ぎたる頃、列車はゆる/\とある一小驛に入り申し候。驛夫の呼ぶ聲に今更ながら胸轟かして、電燈の光徒らにまばゆき此驛《こヽ》に、世の荒海の波止塲とばかり、足踏みしめて降りたち申し候。荷物も數あるまゝに、幸ひと我前に腰をかヾめたる車夫の車に乗りて、奇しくも身をか丶る地に運べる列車の、Kく/\横はれるを後にして、車は間もなく長き橋にさしかヽり申し候。水《みな》かみの水車の音悲しく響きて、真Kなる杉森の岸にのぞめる。街の灯はなか/\に遠く候を、其折の淋しさ恐ろしさを思いやり候へ。老いたる車夫が一喘ぎごとに、賑かなる街には近より候へども、身うちをめぐる不安と寂寥の思ひに、好奇の眸もかヾやかず[#原文では「かヽやかず」]、たヾ長き町よとのみ頭に殘り申し候。やがて[#原文では「やかて」]車を停めたるは校長のお宅にて、それより髯多き其人のかねてよりの計ひにて、細道を幾曲りしたる此家に落ちつく身とは相成り候。居間と定められたるは二階の6畳にて、掃除け心ゆくばかり行き届き居り候。主人は當町役場の戸籍係憺當の由にて、毎朝私と同時刻に出勤いたし居られ候。御家内樣に切り髪の御老母一人、それに十五ばかりなる下女との四人暮しにて、たヾ一人のお子息は今仙台の醫學校に御在學中の由、いづれも心きヽたる方々に候。さはれ今朝ほど朝餉の折、おにしめに私大嫌ひの人參の交れるに、それのみ殘すもあまりに我儘らしう、目をつぶりて飲み込み候へしが、これまであらゆる我儘を通し越し身の、そぞろうら悲しくも相成り候へし。明くる日は早くより登校して何かと参觀いたし校則のいろ/\も申し渡され候。校舎は未だ日本風にて、右手の敷地に今着手中なるが洋風にすべき企ての由、製作品にも見るべきもの多く、創立日まだ淺きに比しては、兎に角整へ居る模樣に御座候。私は造花と編物を受持つやうに相成り候。かりそめに習ひ覺えたる技もて身すぎせんとは思ひもよらざりしをと、先たゝれたる父母怨めしく、ともすれば旅の身のつめたき涙は頬を傳はるにて候。はじめて此家《このや》の此室に荒川の水音を枕にして身を横へる其夜にて候ひき。度かさなる寢返りに更けてやう/\うと/\としたる二時頃、耳つく半鐘の亂打に飛び起きて、雨戸を繰り候へば、面もかヾやく[#原文では「かヽやく」]ばかり程遠からぬ火の手の空をつげるに、思はずもと胸をつかれ候へしが、幸ゐ大事に到らずして間もなく鎭火いたし候。さはれ一頻りはなか/\の騷ぎにて、勝手知らぬ私はたヾ恐ろしさに打ち顫ひ居り候。旅の火事は三國一の見物などいふ諺もこれあり候へども、なか/\さる呑氣なものには之なく候。火元は俗に十軒店といふ貧民窟にて、付け火の由、しかも我が家に放火したるなりとて、明くる日の噂は専らにて候へし。まち/\なる其噂をとり纏め候へば犯人は六十に近き人力車夫にて、二三年前よりいづくよりともなく流れ込める年若き女と同棲し居り、常に口穢き其女との喧嘩は絶え間なく、先妻の子の十四ばかりなるは幼きより手癖惡しく、警察よりも注目され居る者に候由、しかも犯人の老爺の正直なることは誰しも異議をはさまぬところに候。かヽる女の常なるあやしき居動を、老爺はいつの頃よりか嗅ぎつけて年甲斐もなき痴話喧嘩に近所の厄介をかくるは度々にて、其夜も例の騷ぎの末、女は威たけ高に雜言を並べ捨臺辭殘して家を出でし、それよりの出來事にて候とのこと、猶よく/\聞きたヾし候へば、恐ろしき其犯人こそ、其宵私を乘せたる老いたる其車夫にて候へし。夜分なればと僅かばかりの増錢とらせたるを、二度三度小腰かヾめて、やがてとぼ/\と空車ひき行く後姿の何となく哀れに胸に象され候へしか、かくと知りたる其夜は、私まんじりともせず、纏らぬ考へに更かし申し候。其あくる日歸校の途をわざ/\廻り道して焼け跡を訪ひ候へしが、萎へたる失望の力は惡酒にそヽがれて見る/\忿怒《いかり》となり自棄《やけ》と變じ、身を忘れたる狂ひ心の老爺が嫉妬の炎に燒かれたる一棟の、柱は半ば殘りて瀬戸物のかけらのみ白く目にうつり候ひき。思ひいでヽは時々其夜のうちに拐引《ひか》れたる老爺の、醉覺めたる顏の色青く、後悔《くひ》に戰《おのヽ》ける肩のあたりを、まのあたり見る如思ひ泛べらるヽにて候。
 町の有樣などは次の便りにゆづり申すべく、猶先度萩原方といたせしは荻原の間違にて候間左樣御承知下され度今宵はこれにて筆とめ申し候。

[入力者注] 漢字は旧字体を残しましたが、変体がなは現代のひらがなに直しました。

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