羅漢寺の夕

―― 故 水野仙子女史記念 ――

上司小劍

讀賣新聞 大正八年七月二十日

 二科會の寶だと言はれてゐる林倭衛《しづゑ》氏が、大杉榮氏の紹介状を持つて訪ねて來られた。さうして其の近作「雪の妙高山」を私の手に譲り受けることが、偶然きめられた。十五號の油畫額は、書斎の床にかけるのにふさはしいものであつた。倭衛さんの藝術のシンケンで、率直で、私たちの思想にピタリと合ふやうに感ぜらるゝのには、前々から敬服してゐた。
 「雪の妙高山」を床の間にかけて、私は先づ床の間といふ變な形式の場所から、因習的な日本風の軸物を排斥したことに、言ひ知れぬ快よさを感じた。床の間へ油畫をかけてゐる人は、世間にないことはない、小川未明氏なぞも其の一人であるが、私の家ではそれが今度初めて行はれた。言はゞ革命がおくれたのだ。
 其の「雪の妙高山」に眺め入つて、書きかけた筆を持つたまゝ、仕事を中止してゐるところへ、川浪道三氏が見えた。私は筆をおいて欣び迎へた。さうして亡き水野仙子さんのことを思ひ出した。
 仙子さんが、最後に私のこの書斎へ見えたのは、昨年の春頃でもあつたらうか。私は冬になると、よく仙子さんから山鳥を頂くので、先づ其の禮を述べたことを覺えてゐる。仙子さんの故郷あたりで獲れる山鳥には、特別の香味――山の香とでもいふべきもの――があつて、芹を加へた羹は、私の家の貧しい食卓の珍味となつたことが、兩三年つゞいてゐる。
 其の時、仙子さんは、「人間の死骸も、山鳥のやうに手輕く、小包郵便にでもして片付けて貰うといいけど、おせつかいな人たちが集まつて、死骸を弄ぶのは厭やでございますね。葬式だの何だのつて、……」と、不意に變なことを言はれた。其の意見は私たちにとつて同感すぎるほど同感で、機會ある毎に言つてゐることであるが、病體の仙子さん、――人車に乗らなければ、電車から私の家まで來られない仙子さん――から、こんなことを不意に聞いたので、私は一種の妙な、物事の豫覺といふやうな感じに打たれた。
 「わたしは、葬式の「式」といふ字が厭やでございましたが、近頃は「葬」といふ字にも僞りの響きがあるやうで、厭やになりましたわ。死んでも何もしないで、……ほんたうに何もしないで、こツそりと焼き棄てゝ貰ひたいと思ひますわ。」と、仙子さんは其の時また言つて、私の心を暗くしかけた。――
 川浪さんが見えたので、私は直ぐに其の折のことを話すと、氏は首を傾けつゝ、「そんなことをよく言つてましたが、お宅へ來ても矢張り言ひましたかね。」と、感愴の深い顏をしてゐられた。
 しかし、仙子さんの灰を雜司ケ谷に埋めたなりに、何もしないといふのは、生き殘つたものに取つて物足りないといふやうなことから話が進んで、前田、田山の兩氏にも御相談をした上、仙子さんを記念する會を催すことにきまつたのは、それから一兩日後であつた。
 月の十二日、午後四時、下目黒の羅漢寺へ集つたのは、仙子さんが親炙十年、教へを請い、薫陶に預つた田山花袋先生を始め、晩年特に敬慕してゐたらしい有島武郎氏、いろ/\と立ち入つたことまで面倒を見て貰つた前田晁氏、この土の上に獨り寂しく取り殘された愛人にして夫君たる川浪道三氏、次に同性の友生田花世女史の外に婦人たち三四人と、それから阿部次郎氏、宮地嘉六氏なんぞに私も加はつた十八人であつた。成るだけ多くの人を集めないのが故人の志でもあらうし、發起人の望みでもあるので、案内状はごく狭い範圍に限つたが、案内状に接した人が殆んど總て集られたといふのも、快よいことであつた。
 羅漢寺の住持が手づから調へる黄檗普茶料理の調ふまで、十疊四室を開け放つた會場で、來會者は思ひ/\の話をした。本堂へ行つて、並列してゐる羅漢の木像を見て廻る人もあつた。私は近所に住む因縁で、案内役のやうにして、方々を歩いた。羅漢の名は一つも知らなかつた。大迦葉はあれだと先年或る人に教へられたことがあるので、それを向つて右側に探し廻つたが分らなかった。僅に盲目の一羅漢を發見して、それが釋迦の子であることを知つた。
 仙子さんの寫眞が床の間に飾つてあつた。其の前の食卓に運ばれてた普茶料理は、美味なものであつた。美味といふよりは清らかな味がした。かういふものを毎日喰べてゐたいと思つた。さうすれば血がCらかになつて、美しいものが書けるであらうとまで思つた。私は仙子さんの三十餘年苦惱の生活、たとひ暫くでも、塵埃溜めへ鶴が下りたやうにして、婦人記者までしなければならなかつたことを考へつゝ、箸を運んでゐた。
 記念の寫眞をとつて、本堂の前へ出ると、森のあなた、品川湾の方から、赤い圓い大きな月が上つてゐた。


水野仙子女子追悼會は去る十二日午後三時から、下目黒の羅漢寺に於て、精進料理で營まれた。發起人である花袋、晁、小劍の三氏の外、故人の夫君なる川浪道三氏(×印)を初め、武郎、次郎、白葉、実三、武羅夫、嘉六、花世、幸次郎氏等と、近親知友を併せて十八人の列席者があつたが、席上、故人の追憶談が、それからそれへと、口々に語られて、いかにも濕やかな、故人を偲ぶのに適しい小集であつた。


参考文献リストへ戻る。